デビューから Spiritual Unity までの アルバート・アイラー (2)
昔、昔も大昔、初めて芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだとき、幼心に思ったことは「お釈迦様はなんて酷い人(?)なんだろう」。昔から捻くれていたのかもしれないが、そう思ったのである。それは、釈迦が、ずっと苦しんできた人に対し寛容の心を持てということが出来ないのを判らなかったこと(判っているけれど原理主義的な対応を取ったこと、かもしれない)、再び地獄に落ちていくカンダタに対し『悲しそうな御顔』程度の対応しかしかなかったこと、この2点。当時、ここまで整理できていたとは思わないが、今でもこういう思いに囚われたことは記憶に残っている。
死ぬほど辛い責めにいたぶられた人が、一縷の希望を蜘蛛の糸に見出した、大勢の人が登ってくれば切れてしまうのは火を見るより明らかだ。そのときに「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」といったのは当然の理であって(唯一引っかかるとすれば『罪人ども』という言葉だけ、自分も罪人)、なにもおかしなことはない。カルネアディスの舟板みたいなものじゃないか、何がいけないんだ。カンダタは今まで以上の絶望感に打ちひしがれるはずだ、それも「慈悲の心がない言葉を吐いたから地獄に逆戻りした」などとは認識できず、やはり「馬鹿が大勢登ってきたからだ」と周りを怨む心だけ増大する。何のための釈迦の行為か、阿弥陀だったら助けたかもしれないか。
そして『悲しそうな御顔』は完全「上から目線」。自分が悟ったからと言って、悟らずにいるものを劣った者として見るのは止めてくれ。生まれたときからスラムに住み、暴力と汚辱の中で育った者に慈悲を説いても、慈悲に接したことがなければそもそも慈悲の概念自体を認識できないと考えるのが普通ではないか。
昔の船舶振興財団(うろ覚え、今の日本財団)のテレビ・コマーシャルで「人類は皆兄弟、お父さんお母さんを大切にしよう」と●川●一さんが優しい笑顔で言っていた。それに対するギャグ「人類が皆兄弟なら、大切にするお父さんお母さんはいません」。
一見まともそうに見える既成概念を疑え、いろいろな見方をしろ、正義など何処にもない、すべては関係性の中にあると竜樹は説いたのではなかったか。そして草木も仏になれるのであれば、人間などなれて当然、なれないとすれば、考える者ほど仏性から遠くなる、草木の方が動物の方がより神や仏に近いことにならないか、逆説といえば逆説。
Albert Ayler が神をどう認識していたかは判らない。少なくとも Spiritual Unity だとか、Music Is the Healing Force of the Universe とか、Holy Holy 、Saints などの楽曲の題名を見れば、神様を深く信じていたか、それとも馬鹿にし捲くってたか、のどちらかだ。自分の不気味な楽曲にそんな題名を付けたとなれば、後者の可能性も少なくはないだろう。Evan Parker はどう見たって無神論者、でなければ宗教に対して何の尊敬もない、という感じがするのだが、あの Kang Tae Hwan だってクリスチャンだからなあ。もし、Ayler が熱心なクリスチャンだったとすれば、なぜイースト・リヴァーに浮かばなくちゃならなかったんだろうか。
Ayler の初めてのレコーディングは、1962年10月、あの Spiritual Unity の録音が64年の7月だから、ほんの2年弱前のことだ。スウェーデンの Bird Note というマイナー・レーベルにLP 2枚分の記録が残された。ストックホルムのアカデミー・オヴ・モダーン・アーツのホールで収録とあるが、酷い録音でベース・ドラムのレベルが低く過ぎ、サキソフォンばかりが聞こえ、そのサックスも音が突然大きくなったり、小さくなったりする。またLP からの盤起こしのためか、矢鱈とプチプチいう音が耳障りだ。
肝心のアイラーは、というとそれほど悪くはない、案外まともな音を出しているが、2年後のブレイクを十分に感じさせる。やはり、作家の田中啓文さんのいう通り「Ayler はずっと変わらなかった」のであろうか。
ターンテーブルに乗るかというと、やはり回数は他の作品に比べ極端に少ない、やはりこのアルバムは、記録の重要性ということで聴くよりも持っていることの意義の方が余程大きい・・・コレクター根性丸出しと言うべきか。
それから3か月弱経過した63年1月にコペンハーゲンで録音されたのが My Name Is Albert Ayler 。デンマークの Debut からのリリース。可愛らしい声での自己紹介から始まる本作は、録音はもとより共演者にも恵まれ、初期の代表作といってよい。スタンダードが中心で、その中でも Summertime は本作中の白眉。うねくり、細かなヴィブラートを掛けられたメロディーには心を揺さぶられる、残念ながら「感動」してしまうのだ。一転、最終曲の C.T. (もしかして Cecil Taylor のこと?)は、フリーらしいフリーで、やはり Spiritual Unity を生み出す人なのだ、ということが判る。
共演者の中で驚くべきは、ベースの Niels-Henning Orsted Pedersen 。本録音時はほんの15歳。こんなへんてこな音楽に15歳の時から付き合って、人格捩れないのかなあ、などと心配するが、大物にはなっていった。
その1年後。Ayler 、N.Y. に現れる。64年2月、Spiritual Unity の5か月前。同日に全く傾向の異なる2枚のアルバムを吹き込んでいる。どちらが先の録音かは定かではないが、一応 Albert Ayler org のディスコグラフィーに従っておこう。
と言うことで、Spirits 。大学時代に初めて Freedom 盤で聴いたときは Witches And Devils と題されていた。メンバーは、Norman Howard (trumpet)、Henry Grimes (bass [tracks 1,2,4])、Earle Henderson (bass [tracks 1,3])、Sunny Murray (drums)。Murray の不気味な唸り声がばっちり入っています。
完全なフリーで、1曲目の Spirits こそ荒々しいフリーらしい感じではあるが、2曲目以降は、 Ayler のテナーに細かなヴィブラート入り捲くり、泣いているような、うじうじと這い回るような不気味で独特な音群が紡がれる。3曲目の Holy Holy には Ghost のメロディーがはっきりと聴こえる。いずれにせよ、Spiritual Unity の前夜の雰囲気は濃厚に漂う。
もう1枚が Going Home 。メンバーは、Tp に替わり P が入り Call Cobbs Jr. (piano)、Henry Grimes (bass [not tracks 1 & 7])、Sunny Murray (drums [not tracks 1 & 7]) というカルテット編成。Ayler の死後、1971年にリリース、94年に3曲を追加しCD化された。
ゴスペル曲集といったところで、テーマを吹くのみ、アドリブなしの4分から5分程度の短い演奏が10曲入っている。堂々とした吹きっぷりで、聴き易いのもあって一時はよく聴いたものだ。ここでは、フリー界の巨人である Grimes にしろ Murray にしろ、奔放になれる時間を与えられないため、神妙で端正な(?)演奏を聴かせている。
なかなか、Spiritual Unity には行かない、次に紹介するのは Love Cry 以降の作品だったりして。やっぱりへそ曲がりだよなあ、自分でもそうは思っているんですよ、いつも。