日常茶飯事とCDコレクション
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中近東音楽を基礎にしたニュー・エイジ ステラマーラ

 シリアで銃撃されて亡くなった山本美香さんについては、好意的な報道がされている。何年か前に(確か2004年の春頃)イラクに入った日本人3人がテロ組織に誘拐された事件のときは、自己責任論が沸き起こった。また、2010年のタイ動乱時の日本人カメラマン射殺事件のときは、どちらかというと好意的だったように思う。
 どんな動機であれ、戦地や動乱が起きている地に入れば危険であることは重々承知していようし、行くのは本人の選択。しかし、日本人であれば、どんな危険地帯であれ日本国家としては同胞を保護する義務があるのは当然のこと。この前提に立てば、イラクに行ったお気楽3人組と崇高な使命を帯びた(?)ジャーナリストの行動に本質的な違いはなく、国家の対応も異なる方がおかしい。しかし、一方は徹底的に貶められ一方は報道の鑑として賞賛される、ここまで差があるものなのか。確かにシリアは悲惨であって、シリア政府は非難されるべきであるとは思う、そのことを報道したいと思うことは決して悪くはない、しかし、反体制派も統一が取れていないのは一目瞭然で、このまま政府が倒れれば、今以上の内戦状態になるのは確かだ。国連安保理も自分たちの主義主張が先に立って、手を拱いているのが今の状況。
 そうした中でジャーナリストと呼ばれる人々が取材し送ってくる映像にこれ以上何の意味があるのだろう、ああ街は瓦礫の山ですね、市民が沢山死んでいます、この国に生まれなくて良かった、平和な国の多くの人々はそうとしか思わない。思えばボスニア-ヘルツェゴヴィナ内戦のときはもっと悲惨であったろう。多分、ヴェトナム戦争の報道がこうした悲惨さを伝える戦争報道の先駆けとなった。
 ヴェトナム戦争は、アメリカ帝国主義の起こした戦争、アメリカが悪、ヴェトナム人民が正義、アメリカはヴェトナムから出てゆけ・・・かくして正義は勝ち、しかし正義の国から何十万人という人々がボート・ピープルとして逃げ出した。チトーが作り出した偽物の平和は、それでも何十年と死人を出すことがなく、近隣のイスラムに憎悪を撒き散らすことがなかった、齎された自由が憎悪をかき立てる。何が正義で何が悪か、立つところによって風景は全く違って見える、ジャーナリストが自分の見た風景だけがそこの風景だと主張するとしたら、そんなものに価値はない。また、見えるものが全てだとすれば、破壊された建物しか形として見えるものはない、そんな垂れ流しの映像と音声に、今どれ程の意義があるのか。
 死は全ての終わり、全身に銃弾を打ち込まれて死のうと、警官に追っかけられて自損事故を起こして死のうと、残った人がどう考えるかの違いはあっても、本人にとっては皆同じ。

 何が言いたいのか自分でも判然としないが、考えることが重要と言うことで。今回は Stellamara 、これでもアメリカのバンド。聴くきっかけとなったのは、このバンドの中心人物である Sonja Drakulich 嬢が Faun の2012年ツアーに加わったこと。Lisa Pawelke さんが抜けたあと、Sandra Elflein嬢、Rairdaさんと女声メイン・ヴォーカルが変わり、今回彼女が加わった訳。彼女がメイン・ヴォーカルを取るアルバムが出る前に、どんな音楽をする人なのか確認しておこうと思ったのだ。

a0248963_1722227.jpg このグループ、アルバムは3枚しか発表していないが、その活動期間は長い(中断期間があっても判らないから、その間存在したものと見做して)。最初のアルバムが Star of the Sea 、1997年作品。このアルバムのメンバーは、Sonja Drakulich (vo, perc)、Jeffery Scott (oud, guitar, perc, dulcimar)、Gary Haggerty (vin, vla)、Susu Pampanin (perc)、Marika Hughes (cello)、Micheal Emenau (sampling)、プロデュースは Sonja と Jeffery Scott 、作曲も2人で行っている。曲の半数以上は13世紀から15世紀の色々な言語の詩を使用、そういった意味ではFaun に良く似ているのだが、こちらの方が中近東色が強い。
 最初の曲など、こうした中世バンドの定番曲の一つであり、Faun も Estampie も演奏した曲、彼らに独自色があるかといえばそうでもない。Faun との比較であれば、Faun が比較的少ない音数で音楽を構築しているのに対し、パーカッションの厚みのある音の数が詰まった感じ 。また、ヴォーカルも合唱的なエフェクト、または多重録音によるコーラスが多く、例えば Lisa や Sandra の独唱または Fiona のはっきりした伴唱のみの Faun とは大きく異なる。また、Sonja の声は綺麗だがあまり個性的ではない、これは Faun も同様で、それ故メイン・ヴォーカルに迎えたのかも知れない。音像のはっきりした Faun の方が圧倒的に好みだが、聞き流すには良い。

a0248963_17222119.jpg 2枚目は、2004年の The Seven Valley 。Jeffery Scott に替わり Gari Hegedus (oud, saz, vln, vla) が音楽的なパートナーとなる。Sonja 嬢は、セルビアとハンガリーの血統らしく、バルカン系、中東系の音楽には馴染みがあるのかも(しかし、育ちはロスアンジェルスのようだ)。
 管の音がないためか、音が乾いている感じ。ここでも歌詞は伝統曲から何曲か取られている。ウードのインプロなど含めて前作よりは起伏に富む作りにはなっている。
 ザビエル・レコードの案内を見ると、Dead Can Dance の系統とあるが、それは違う。L’ham de Foc といわれれば、そうかなとも思うが、L'ham の方がヴォーカル、撥弦ともテクニックは上のように思う、こっちの方があっさりとはしていて、聴き易いとは思うが。

a0248963_17223835.jpg 3枚目が The Golden Thread 、2009年作品。前作と同様 Sonja と Gari が中心。本作は、トルコとハンガリーの詩とメロディーを使用している。トルコといわれれば、なるほどトルコという感じ、Niyaz とも相通ずるが、Niyaz の方がよりイラン的で、そしてエレクトロニクスの導入は大きい、しかし両者良く似ている。ハンガリーにしろルーマニアにしろ、バルカン半島はイスラムの支配下にあった時期が長いためか、ヨーロッパというよりアラブ的な感じが強い、Besh o DroM もそんな感じだったな。
 本作、擦弦を始めとして長いソロが多く、器楽の好きな自分にとっては非常に取っ付き易い。Ross Daly と Kerry Thoma という Lyra ( Lyra というとどうしてもハープの親戚の竪琴を思ってしまうが、ここでは擦弦の方の Lyra )奏者もフューチャーされている。また、クラリネット奏者もクレジットされており、バランスは良い(ソロは若干少ないが)。
 Faun との比較でいえば、やはりヨーロッパと中近東、アラブという差、L'ham de Foc はスペイン、イベリア半島のイスラム影響度でいえば、こちらの方が音の印象が近い。

 石油が出なければ、ずっと昔と変わらぬ暮らしが出来たのかもしれない、それが幸福なのか不幸なのかは誰も判らない。サウジアラビアのように米国と友好関係を築きながら国内では原理主義そのものの体制を敷く国もある、この現代になってもまだ宗教か、とも思うが、縋らなければ生きていけない人たちもまだまだ沢山いる。
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by ay0626 | 2012-08-26 15:12 | new age

冥い波、再び ブラック・テープ・フォー・ア・ブルー・ガール (2)

 夏バテのせいか、本も読まず、音楽も熱心に聴かずの状態が続いている、おまけに会社でも家でも碌なことがない。こういう時には、部屋に閉じこもってじっとしているのが一番だろうな、と理屈を付けて昼寝ばかり。
 処暑も過ぎたのだから暑さも一服になって欲しいものだが、朝は多少凌ぎ易くはなったか、昼からの暑さは相も変わらず。会社から帰る頃になるとそれでも陽は相当に傾き、電車が最寄駅に着く頃には夕焼けも暗さを伴う、やはり季節は着実に歩みを進めている。
 そういえば、今年はウナギをまともに食っていない、稚魚が不漁とかで値段も随分上がっているものと聞く。ウナギも食えば旨いのだが、そうそう食い慣れたものでもないため、口に入らぬが寂しいといった感じもなく、食わねば食わぬで過ぎていってしまうもの。土用の丑の日の数日前に会社の食堂でも大出血価格200円也で丼が提供されたようだが、並ぶのが嫌でそばなんぞを食してしまった、ちょっと我慢して並んでおいたほうがよかったか。
 そもそも土用とは、陰陽五行説にいうところの変化の時期、季節の変わる時期、従って立春、立夏、立秋、立冬の前の18日程度を指す。正確にいうと今は「夏」の土用になる訳だ。立秋の前の節季は大暑だから、夏の一番暑い頃、スタミナ食としてウナギを食いましょう、ということのよう。一般的には、平賀源内がコマーシャル・メッセージとして発案したということだが、もともと丑の日に食わなければならぬ理由は述べられてはいない。一説に丑の日に「う」の付く食べ物を食べるとよいといった風習はあったようで、梅干とかを食べるなんていうのもあったそうだ。そういえば、食い合わせの悪いものの代表にウナギと梅干というのがあった、どうもそれは嘘であるらしい。
 思えば昔は食いたいなぁと思う食い物がいくらでもあった、しかしこの歳になると今何が食べたいと聞かれても困ってしまう、本当に心から食いたいと思うものがない、食いたいと思ううちが華なのか、食いたいものがない割には、どんなものでも食い始めると食ってしまうのが痩せない理由なのだが・・・。

 と、また本ネタとは関係のない無駄話で始まりました、ハイ。昼寝のお供に、とういことで Sam Rosental 氏率いる Black Tape for a Blue Girl の2回目。昼寝のお供は、最適が Stephan Micus で、Black Tape は途中豪くびっくりさせるような音も入っている場合あり、要注意といったところ。

a0248963_15555038.jpg 5枚目に当たるのが、This Lush Garden Within 、1993年作品。瓦礫の上に寝転がる裸のおねえさん、というジャケット・デザインは、ヌード写真満載の歌詞ブックレットの入った2009年の 10 Neurotics の先駈けともいえるか、しかしながら音楽面は今までの作品と殆ど同じ傾向といってよい。たゆたうシンセサイザー・ウェーヴの上にくっきりしたヴォーカルの載る、メロディーの追い難い音楽。
 殆ど生楽器は使っていない、若干のピアノとギターのクレジットがあるだけ。ヴォーカルは Oscar Herrera と Lucian Casselman がメインだが、Oscar Herrera の出番は相当少なくなっている。Sam 氏もがんばって数曲メイン・ヴォーカルを張っている。他に2~3人のヴォーカリストが参加しているが、そんなに強烈な印象を残す訳ではなく、曲といっても同じような感じで流れるので、54分の作品の中の1パートとも言えてしまう。

a0248963_15571094.jpg 6枚目が Remnants of a Deeper Purity 、1996年作品。2006年に10周年記念盤として、97年のEP With My Sorrows にライヴを加えた2枚目を加えて再発された。
 77分の大作で、全面的にヴァイオリン( Vicki Richards ) とチェロ( Mera Roberts ) が加わり、サウンド的にも厚みと深みが増した、傑作といってよい。ヴォーカルは前作から引き続き Oscar Herrera と Lucian Casselman だが、インストルメンタル部分がかなり多くなっている。特に4曲目、For You Will Burn Your Wings Upon the Sun は26分を超える作品で殆どがインストルメンタル。相変わらず Oscar Herrera の声は暑苦しいが、慣れればそんなもの、Sam 氏はこうした声が好きなようで、次の男声 Athan Maroulis も似たような感じ、良くも悪くも Black Tape のメイン・メイル・ヴォーカルははっきりくっきりの熱唱タイプ。
 Disk 2 に収められた With My Sorrow もなかなかの出来で、ヴァイオリンとチェロが非常に良い感じ、若干の大袈裟感は否めないが、それでも今までのシンセサイザーのみの無機的な印象にかなりの表情が出てきた感じで、次作以降のアルバムの作り方の骨格はこのアルバムにある。

a0248963_15562677.jpg 同年には、EP として33分ほどの The First Pain to Linger が出ている。この作品は Sam 氏の小説の付属品のよう(小説が付属品?)。1曲目と7曲目(この曲には題名が付いていない、湾岸戦争時の薄暗い雰囲気の中で作った、とのこと)のみが未発表曲、他の曲は色々なコンピレーションに提供した曲を寄せ集めたもののようだ。メンバーのクレジットは、Sam 氏と Oscar Herrera 、 Lucian Casselman の3名。
 この EP は、そんなに数も出ていなかったらしく、amazon のマーケット・プレースに出るとそこそこの価格が付いているものだから、Projekt (Sam 氏のレーベル、Black Tape は全てここからリリース)の通販ページでこの EP を見つけ、その上『Last Copies !!』なんて煽られるとついつい手が出てしまった。33分の内容的には大したことのない作品に$18などという大枚を叩いてしまったが、コレクターとしては当然といったところか、しかし、それから既に1年が経過しようとしているのに、未だ通販ページには本作が『Last Copies !! 』のまま販売が継続されている。

 もう夏も終わり、来週は休暇を取って北海道に遊びに行くつもり、涼しいといいなぁ。もう少し暑さを我慢、音楽を聴きながら昼寝を継続。
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by ay0626 | 2012-08-25 13:46 | dark-wave

その後のソロ活動 エヴァン・パーカー (2)

 敗戦記念日の頃になると何かしら中国・朝鮮半島が騒がしくなる。苛めた方は忘れても苛められた方はうじうじと忘れない、ましてや大昔は格下と思っていた者にやられるとなれば一層忘れる訳にはいかない、たぶんそんなところ。中国も阿片戦争のことはもうがたがた言わないが、15年戦争のことは絶対に忘れない、朝鮮半島など1000年以上中国の属国だったことは何も言わないが、日韓併合からの35年間のことは忘れない。
 確かに日本文化の多くは中国から朝鮮半島を経由して齎された、これは誰もが知っている、それを否定する日本人はいないだろう。大昔、本当に大昔の話、しかしそれがずっと彼らの中にある、日本を文明化したのは自分たちだと、日本は格下の国だと。
 帝国主義の時代、侵略行為は決して否定されていなかった、強国が弱小国を自国傘下に置くことは当然だったし、人種が違い国力に大きな差があれば搾取の対象としての植民地にするのは自明の理だった。
 大きな2つの戦争で科学が発展し技術が向上したことにより、効率的過ぎるほど簡単に人を大量に殺せるようになってしまった、それが一部の国だけでなく多くの国でも使用できる状態になった。加えて、情報量の増加、大昔はどれだけ残虐に人を殺そうが判らなければそれでよい、判ったとしても死体がリアルに見えるわけじゃない、しかし、現在では今日の残酷行為が今日のうちに動画サイトに載ることも多い。つまりは戦争・侵略行為が昔ほど経済的に見合わなくなり、また残虐行為の対象となったり行わなければならなくなる一般大衆(まさか高貴な方々が最前線に立つことなどありえない)の惧れが戦争を抑制しているだけのことだ。シリアのように外からの目を気にしなければ何でも出来るのだ、多くの国は外面を気にして(世界のリーダーだから?良き世界市民故?)それをしないだけのこと。今の(外面の)常識で当時の国家行動を批判しても始まらないだろう。それ以上に、太平洋戦争当時のことを持ち出せば、現在の経済が絡む領土問題に対して、何とでも言えてしまう、論理がすり替え易いということが透けて見える。
 あと何年、何十年、何百年言われ続けるのか、やっぱり戦争をやるならとことん勝たなければ、日本はアメリカの物量と自国の変な意識(神国?大和魂?本当の大和魂は源氏物語のよよと泣く、女の尻を追いかける男の心)に負けたのであって、別に連合国全体に負けた訳じゃない。戦争に負けて良かったのは、ヒエラルキーによる日常的な暴力がなくなったことくらい。

 と2日続けて全くCD紹介と関係ない話題から入ってしまった。ほんと、自分でも感心するほど、前ネタから音楽の話に繋げられない、しょうがないと開き直るしかないか。

 ということで、Evan Parker のソロの2回目。一番植民地を多く得た国、イギリスのインプロヴァイザー。

 殆ど3枚目の Six of One (80年)で技術的な面では行き着くところまで行ってしまったので、その後の作品はその時点時点での現況報告といったところか。80年代半ばから90年代半ばまではフリー・インプロヴィゼーションに嵌っていて、しかし2000年に入る頃には殆ど興味を失った。Parker や Rothenberg、Kang Tae Hwan あたりはそれでも聴き続けたが、当時ほどの興味を持って聴くようなことはない。
 例えば、聴き始めたころのアメリカの新しい波ともいうべき John Zorn のゲーム音楽や Eugene Chadbourne のフリー・カントリー・ウェスタンなどは相当興味を引いたが、ヨーロッパの本家の方は新たな方向性を示す動きはなく、つまりは同じ方法論の繰り返し、フリー・インプロヴィゼーションが本来的に持つ『自由の不自由さ』、つまりどんなに自由の演奏しようとしてもついつい自分の方法論が出てしまう、いつも違う音楽が出来る訳ではない、ということを如実に現す録音しか出ない、それが多くのCD から判ってしまう。Derek Baily などどんなアンサンブルにいても、Baily だと判る音しか出さない、それが彼のいう non-idiomatic inprovisation なのか、ちょっと違うんじゃないか。そう思い始めるとなかなか身を入れて聴けない、そうした経緯でフリー・インプロヴィゼーションから離れていった訳だ。

a0248963_220247.jpg Incus から離れて始めてのソロは、89年録音(93年発表)の Conic Sections 。仙台でフリー・ミュージックのディストリビューター・プロモーター・レーベル主催者として活躍した中村邦雄さんに捧げられている。もうここまで来ると、如何に早く滑らかに音が出し続けられるか、その一点のみが焦点となっているかのようだ。また、CD 発売を前提として、1曲当りの時間が長くなっている(第3パートは25分を超える)。
 このアルバムの発表に先立って FMP から Process snd Reality というソロ作品が出ているが、この作品のコンセプトはちょっと違うので、今回の紹介から外してある。2006年の Time Lasp と併せて別の機会に紹介したい。

a0248963_2204688.jpg 98年には、Günter Christmann (cello, tbn) とのデュオ Here Now が出ている。冒頭の Cone of the Future は32分超、続く Cone of the Past は7分超の Evan のソロ、ということでここで紹介する。CD として出されたソロの中では最も長尺なのが Cone of the Future 。



a0248963_2233585.jpg 21世紀に入って最初の作品が Lines Burnt in Light 、2001年作品。Evan が主宰する psi レーベルの第1回作品。その後、このレーベルから初期のソロ作品が復刻されていくことになる。
 収録は3曲、20分台の2曲と10分台の1曲で構成されている。この時、Evan 57歳、まだまだ元気はつらつである。


a0248963_2213173.jpg 2008年、Whistable Solo 。8曲収録、珍しく10分に満たない演奏が7曲と15分台の曲が1曲。CD の入った内袋の Evan の写真は前を睨み、まだまだ演奏活動するぞ!という感じ。
 ここまで来ると購入するのも惰性といったところか、コレクターだからこれも当然(?)。

 以上が、ソプラノ・サックス・ソロの作品集(他に鳥の囀りとの共演した For Steve Lacy というアルバムがあるが未聴)ということになる。95年のテナー・サックス・ソロ Chicago Solos やコンセプトの異なる Process and Reality 、Time Lasp 、Leo レーベルや Emanem レーベルの異色作は稿を改めて。
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by ay0626 | 2012-08-19 19:57 | free improvisation

ハンガリーのパワー・ラディカル・トラッド ベシュ・オ・ドロム

 オリンピックの余波も落ち着き始め、そろそろメダリストの皆さんも日常復帰と言ったところか。
 スポーツ選手というと爽やかだとか純粋だとか言われるが、実際のところどうなのか。例えば、アフリカの何とかいう国の選手は、大会が終わっても選手村に帰らず行方知れずになってしまったという。自国に帰るよりロンドンで潜み続け何時か亡命でも果たし、二~三流でもよいからプロスポーツ団体からお呼びが掛れば余程よい生活が出来ると踏んだのであろう。そういう意味じゃ、スポーツも亡命の手段以外の何ものでもない。別に自国に忠誠を誓わなければならぬ理由もない、その期間だけナショナリズムの発動する日本みたいな裕福な国ばかりではないのだ。
 スポーツ選手が純粋ならば、絶対に起こらないことが起こったのがバドミントン、無気力試合をやり捲くって、日本人が棚ボタの銀メダルを取ってしまった、別に銀メダルを取った人を貶めるつもりはない、ただやはり参加することに意義などなく、メダルを取ることのみに意義があることを教えてくれる。特に国威発揚のために選手を養成している国はそうだ。日本だって、メダルを取ればその人の努力の跡まで詳細に教えてくれる、大体が感動話を交えてだ。メダルを取らなければ、話題にも何もならない、何百人単位で凄い金を掛けてロンドンくんだりまで出かけて、話題にも上らない競技の如何に多いことか。
 ヤフーのニュースだったか、スポーツ選手に、5年以内に死んでしまうようなドーピングをしてもオリンピックのメダルが取りたいか、というアンケートを採ったところ、実に過半数の者がイエスと答えたという。別に驚くことではあるまい、選手は狭い世界に住んでおり、交友の場も話題の範囲もその中だけ、当然と言えば当然のことだが、その中で思考の全ては如何に一番になるか、それしかない。採れる手段は何でも採る、判らなければそれでよい、その世界の住民の多くの者がそう思っている。自分たちサラリーマンでも、そう何社も会社を渡り歩くならいざ知らず、自分の勤める会社がスタンダードと思い、社内常識がつい社会常識と思ってしまう、それがかなりずれていようとそういうものなのだ、スポーツと言う特殊世界であれば、その傾向が一層強くなるのは当然だろう。
 もう一つ、ハンマー投げの某選手が、IOC委員か何かの選挙の違反をしたとかいう話、ちょっと興味深かった。どうしてもスポーツ選手は若いうちにピークを打ってしまう、会社員とは違い歳を取ることは一方的に衰えていくことに他ならない、その中でちゃんと未来を見据えて自分の生活を考えている人もいるのだ、皮肉ではなく。たとえハンマー投げというマイナー・スポーツでかなり歳を取るまで競技が出来、親父もその道の人という条件が揃ったせいであっても。少なくとも矢吹丈のように自分の階級を変えぬために試合直前に下剤をたんまり飲む、といった『純粋さ』に賞賛の声を上げる人たち、スポーツをただ美しいものと考えて、感動を貰ってありがとう、と素直に言ってしまえる人たちは思いたくはないだろうが、すくなくともメダルを取るような選手はその競技が『職業』なのだ、ということは事実なのだ。違反すれすれ、というよりも一歩間違ってしまったハンマー投げ某選手は、スポーツ村の住民からは賞賛を受けるのだろう、余程出ることに意義を見つける話題にもならない貧乏人選手は別として。
 ロンドン・オリンピックは、まあ、ショウとしてはよかった、北京みたいな国家が出てこなくて。最後に出てきたポール・マカートニーは見苦しかったが。

 上の話題とは全く関係のない、ハンガリー Besh o DroM(DroM の M は大文字が正しいらしい) の紹介。ハンガリーと言えば、The Moon and the Nightspirit のことを以前に書いたが、同じ国でも全く異なる方向、それが面白い。

 Besh o DroM は、1999年に Barcza Gergő (sax, ney, flute)、Pettik Ádám (derbuka, vo)、Sidoo Attila (g) により結成された。ブラス・ワールド・ミュージックというか、なんとも異国情緒に溢れた(バルカン半島各地の音楽を寄せ集めた)判り易いメロディーに、時には DJ にミックスさせたりするところも、何でもあり、という感じ。エレキ・ベースは入っているのだが、パーカッションがドラムではなく民族楽器が主体なので、やっぱりロックやジャズではなく、ワールド・ミュージック、ラディカル・トラッド。まあ、ついこの間書いた Warsaw Village Band でさえ DJ Mix があったのだから、このバンドにそれがあっても当然と言ったところか。

a0248963_22395379.jpg 最初のアルバムが、2000年の Macsó hímzés (Macho Embroidery ~ マチョーの刺繍)、ハンガリーではプラチナ・アルバムになったということのようだが、かの地でプラチナはどのくらいの枚数を売ればそうなるのか、まさか人口が1,000万人に満たない国で100万枚はないよね?
 確かに明るい乗りで、器楽演奏はカラフル、メロディーも判りやすく印象的、ということになれば売れるのは判るのだが、例えばダルシマーやネイ、カヴァル(民族フルート)が入っているということは、日本でいえばポップスに尺八や三味線、竜笛や笙が入るようなもの、やっぱり変だよね。
 元々民族音楽系の音楽家は演奏の達者な人が多く、このバンドも例外ではない。ブラスを主体とした曲を中心に置いている中に、例えばダルシマーやネイの長いソロを含んだ民族音楽っぽい曲が紛れると強烈な印象を残すことになる。
 Szalóki Ági (アルバムには Ágnes と表示) の声も柔らかで、4曲を歌う。他にも Csurkulya József のダルシマー、Farkas Róbert のヴァイオリンやアコーディオンも非常によい。

a0248963_22403711.jpg 2枚目が、Nekemtenemmutogatol (Can't Make Me!)、2002年。このアルバム、世評には高くないようだが、自分としては非常に気に入っている。
 ダルブッカに導かれブラスが入り、素晴らしいアコーステック・ギターとアルト・サックス、トランペットのソロが聞け、またリズム、曲調の目まぐるしい変化が楽しめる1曲目からこのバンドの魅力満載。一転2曲目は、尺八の音かと思うほどのネイの哀愁、落ち着いたギターとパーカッションのジャズ的な伴奏。3曲目は、エレキ・ギターとアコースティク・ギターの多重録音、といったように非常にバラエティーに富んでいる。自分がこのアルバムを好む理由は、多分各楽器の音がソロの形でよく判ることではないか、と思う、ジャズを聴くときのような聴き方をしている訳だ。
 そしてなんといってもびっくりなのが、2曲を歌う Juhász Miczura Mónika の声。何というかヘリウム・ガスでも吸ったような感じで、もの凄く変。たった2曲じゃなくて、もっと歌って欲しかった。次作 Gyi ! では、前作の Szalóki Ági との2枚看板で2曲を歌っている。

 ということで、後の3枚は別の機会に。Warsaw Village Band でもそうだったけど、この頃は何か根性がなくて、紹介できるアルバム数は2枚程度、ニンテンドーDS のやり過ぎで頭の中がウニ(勿論黄色くて美味しいアレ)状態のせいかも、まともに音楽も聴いていないからなあ。
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by ay0626 | 2012-08-18 20:43 | radical-trad

4人でつくる異世界 たま (2)

 この頃は、オリンピックばかりで政治もがたがたした割には取り上げられることもなく、世の中平和だなぁ・・・と思わざるをえない。自分も夏の暑さに弛緩して、休みともなれば昼寝ばかりで、起きているときはニンテンドーDSを弄っているだけ。

 こんなときは、たまの音楽を聴いて弛緩し切ってみるのもよい、立ち上がる気力もなくなるかもしれないが。4たまの崩壊からもう17年、3たまの解散からも9年経過しているが、あんな雰囲気を持ったバンドはその後出ていない。変に元気か変に説教臭いワンマンバンドばかりの近頃のJポップ界であります。
 4たま時代は、それぞれ個性の強い曲を4人ともが作っていたが、その中でも知久寿焼さんと石川浩司さんの個性は特に強く、知久さんには「孤独な子供」のイメージ、石川さんには「フリークスに対する親近感」を感じる。
 知久さんは、親が新興宗教の熱心な信者だったよう、宗教の信者は家に金を入れるより教主さんに金を差し出すことに熱心になり、また活動のために家を空けることも多くなるため、子供が取り残され孤独感に苛まれることが多い。知久さんもその典型だったようで、彼の歌には「取り残された子供」のイメージを感じさせる。例えば「鐘の歌」でも行方知れずの子供、「きみしかいない」も2人だけこの世に残った子供で、親の出てくることはない。彼の曲に見られる独特な暗さ、寂寥感はそこから来ているように思える。また、宗教に対するそこはかとない嫌悪感も、例えば「方向音痴」の「ほ~ほけきょ~(知久さんの親は日●宗の某有名教団だったらしい)」とか「あたまのふくれたこどもたち」の「かなしい新興宗教は/さびしげなる土手の風景です」という直接的な表現にも見えている。
 一方の石川さんの家は、父親が高級官僚で相当ハイソ(いまでも使われる言葉か?)な家庭で育ったようだ、そんな中では彼は落ち零れ。落ち零れた者たち、社会から排斥された人たちに共感をおぼえるようになるのは当然のことかも知れない。特に「カニバル」は圧倒的な迫力を持って、排斥されるもの=フリークスに対する共感を表明しているように見える。他にも「リヤカーマン」や「東京パピー」にその傾向が明らかだ。石川さんの自己肯定の精神には共感することが多く、自分の選んだこと、好きなことをあれだけ素直に表明することにやっかみさえ感じてしまう、大きな成功でなくとも好きな音楽で食べて行けることに対しても全面的な肯定、そこに何の衒いもない、好きだなぁ。

 ということで、4たまの後半戦。92年の『犬の約束』から95年末のライヴ『たま ライブ・イン・ニューヨーク』まで。

a0248963_22575023.jpg 4th『犬の約束』、レーベルを変えて東芝EMIから。12曲収録で各人3曲ずつを担当、4人が曲を持ち寄っているのに見事にたまの世界が構築されている。1st から3rd まで、比較的ストレートな音の取り方であったのに対し、このアルバムでは凝った録音・音響効果を狙っているように思える、例えば「ねむけざましのうた」「温度計」「ガウディさん」など。
 滝本さんのソング・ライターとしての才能は一層の伸長を見せる、「夏の前日」は若書の感は否めないが、「温度計」「あくびの途中で」の浮遊感というか不安定感というか独特な曲調と「化石」や「死体」という言葉に集約される無機的な、乾いた語感が合致している。また、「温度計」のウクレレや鉄琴を使ったアレンジや「あくびの途中で」のコーラスの使い方など新しい試みもなされている。
 石川さんのマイペースは変わらずだが(「ガウディさん」の不気味さはこれまでにない感じ)、柳原さん、知久さんの曲にこれはという佳曲がないのが残念。柳原さんの「たかえさん」など知久さんのマンドリンのアレンジが決まってはいるのだが、珍しく歌詞の意味に拘ってしまい、どんなシチュエーションか想像が出来なくて、困る(何を言っているのか、自分でも?)。

a0248963_2258206.jpg 5th『ろけっと』、93年作品。山口マオのイラストレーションでも判るとおり、音の取り方も前作に比べ余程ストレートで、帯の「空の果てまで飛んでゆく。たまのポップワールド」の言葉どおりのアルバム。
 柳原さんに佳曲が多く「ふしぎな夜のうた」は特に偏愛する一曲、乾いた叙情、サンフランシスコと珍しく実在の都市名が出てくるが、この曲にはサンフランシスコという言葉がぴったり来る。また「あの娘は雨女」もノリのよい曲。最終の「寒い星」は2nd の最終曲で知久さんの名曲「鐘の歌」の見事な返歌となっている、「満月小唄」と並ぶ柳原さんの代表曲。
 滝本さんの曲は2曲と少ないが、「日曜日に雨」「眠れない夜のまんなかで」両曲ともよい。知久さん、石川さんとも安定的。全体的にほんわかとした印象のある、好きなアルバム。

a0248963_22583631.jpg 6th『そのろく』、95年作、4たまのスタジオ・アルバムとしては最終作。自身のレーベル 地球レコードからのリリース、前作から2年振りの作品。全く音響操作を加えていない、よい意味では原点に帰った、悪く言えばしょぼい録音ともいえる音作り。
 柳原さんが3曲、知久さんが2曲、石川さんが4曲、滝本さんが1曲となっており、柳原さんの曲は小曲の感が否めず(「だるまだまるな」「猫をならべて」)、実質石川さんが主役となっている。石川さんは、「月の光」など、中原中也の詩に曲を付けるといった新しいことも行っている。
 このアルバム、インディーからということもあってか、メジャー・レーベルではご法度な言葉を使った昔の曲を収録しており、「東京パピー」「あたまのふくれたこどもたち」「カニバル」などがそれに当る。「カニバル」は相当昔から演奏されてきた石川さんの代表曲で、たまのダーク・サイドの中心にある曲、最初に行ったコンサートで「どんぶらこ」「あたまのふくれたこどもたち」「カニバル」と続けて演奏されたときは、彼らのイメージが大きく変わったものだ。

a0248963_22585440.jpg 95年の年末、ニューヨークの Knitting Factory (!) でのライヴをもって柳原さんが脱退、4たま時代は終焉を迎える。『たま ライブ・イン・ニューヨーク』は99年、たまの結成15周年記念盤としてリリースされた。70分を超える収録時間、ほとんどMCのない彼らのライヴの様子が捉えられている。
 全15曲、知久さん6曲、柳原さん4曲、石川さん3曲、滝本さん2曲の構成。6枚のスタジオ・アルバムに未収録なのは石川さんの「お昼の2時に」のみ。
 4たまのコンサート・ライヴは6~7回ほど見たと思うのだが、その印象はMCが少なく、ほとんど音楽のみで構成されている感じ。自分はMCなど不必要と思うので、彼らのライヴは非常に好きだった。前にも書いたが94年の『たまのお歳暮』と題されたライブは、演奏時間・内容とも力の入った素晴らしいライヴであった。このアルバムもそんな彼らのある意味生真面目な感じがよく出ているように思う。

 3たまになって『たま』『パルテノン通り』の2枚のアルバムは聴いたが、やはり柳原さんの欠けた穴は大きく、加えてシンセサイザーなどの取り込みなど音楽にも若干の変化があったため、その後の彼らの音楽には魅力を感じなくなった。2003年の解散ライヴは、10年近くのブランクを経て見た訳だが、知久さんの頭の薄さもあって時間の流れの厳しさを感じたものだ。またそれから10年近い月日が流れた、衰えていくものばかりで・・・。
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by ay0626 | 2012-08-11 20:22 | folk

ポーランドの新たなラディカル・トラッド ワルシャワ・ヴィレッジ・バンド

 先ずは思い出話から。
 ポーランドは2回訪問したことがある。海外など会社の出張で行くのみだから、ポーランドも出張、最初の出張は2003年人事部員として、2度目は2006年企画担当として。人事部は海外各所に2年に1度程度お小言を訊きにいく、海外駐在員たちの苦労は先ずは訊くことから始めるしかない訳で、本社の人事に文句を垂れればそれだけで胸の痞えも降りようというもの。大概は、「それは申し訳ない、でも頑張って」という定形文句で済ましてしまうのだが、やはりポーランドとなると、住む日本人も圧倒的に少なく、日本食など殆ど手に入らない状況、こちらも何とかする手立てもなく「申し訳ない」の言葉も心からのものとなる。
 工場はポーランドの最も南の地区にあり、近くに世界遺産となった場所が3つある。そのうち、中世の町並みの非常に美しいクラクフの街と負の世界遺産に登録された強制収容所アウシェヴィッツを訪問した。

 5月の中旬だったかよい陽気が続く頃で、出向者との一連の面談をほぼ終了し、若干時間が余ったため、何とか言う役所に行くついでにアウシェヴィッツ見学をしたのである。太陽が雲に隠れるとひやっとするような、そんな気温の日。駐車場に車を停めると何台ものバスが目に入る、小学生の社会見学に組み込まれているようで、ぞろぞろと子供たちも入場する、このときは「有名な場所だから小学生も行くのだろう」程度の感想。有名な、Area のファースト・アルバムの題名にもなった「Arbeit Macht Frei 」の看板を潜るとなにか不穏な雰囲気となる。非常に広大な土地に何棟ものレンガ積みの建物、そのうち幾つかの棟に入って見ると夥しい写真と物品、ある棟には鬘が、別の棟には義足や義手が山のように積まれている、そしてガス室の構造の模式図や拷問部屋の解説など、見ているだけで背筋に寒気が上ってくる。そう、ナチスはゲルマン民族の優位性を確保すべく、ユダヤ人、ロマ人、ポーランド人や体の不自由な人を殺戮した。狂気の暴走、ここで何万人もの人が絶望の最期を迎えたかとおもうと、死後の世界や祟りなど全く信じない自分でさえ、一瞬宗旨替えをすべきじゃないかなどという気分になる。いいおっさんでもそれだけのショックを受けるのだから、さっきいた小学生諸君など一生のトラウマになるのではないか、もっと大人になってから見せても・・・なぞ、余計なお世話を焼きそうになる。陽が翳り、ちょっと霧のような雨が降ったりして、さながら恐怖映画の中のよう。
 実際、何十万人(何百万人?)という人がかの地で殺された訳で、外に出て有名な「死の門」でボケッとしているときも何か落ち着かない気分ではあった。

 翌日は、クラクフから飛行機に乗る予定だったので、その前に簡単にクラクフ見学をした。前日のアウシェヴィッツとは打って変わって明るい歴史の重みを感じる町並みで、ヴァヴェル城、聖マリア教会、織物会館など急ぎ足ではあったが印象深い。食事は中華料理、何処にでも中国人は進出しているのか、それでもそこでラーメンを食したのであるが、まあまあの味であった。一緒に行った駐在者があれこれ味を指導したという、経営者は英語の出来る人だったのか知らん。
 こんな近くに天国と地獄、人間のすることなのにここまで違うものか、無い頭で考えたけれど何も出て来はしなかった。

 ということで今回はポーランドのバンド、Warsaw Village Band 。最初のアルバムには Kapela ze wsi Warszawa とポーランド語のバンド名も書かれている。2枚目のアルバムのジャケット・ブックに宣言文みたいなものが書いてあって、最初から独自路線(それを「 bio-techno 」という言い方で表している)で音楽をやろうとしていたのがわかる。アコーステッィクだが現代的な表現でといったところか。

a0248963_1628446.jpg 最初のアルバムは Hop Sa Sa 、1998年の作品。この時のメンバーは、Kataryna Szurman (vo, vln)、Malgorzata Smiech (first vln)、Anna Jakubowska (suka - 16世紀のポーランド起源のフィドル、手爪で演奏する、と書いてある)、Ksenia Malec (b-cello, vo)、Wiktoria Dlugosz (accordion)、Marcin Kozak (baraban dr - どんなドラムか判らん)、Maciej Szajkowski (frame dr)。6人組とあるが7名の記載、写真も6人しか写っていない。
 彼らのいう bio-techno らしく、全編アコースティックではあるが、音の取り方を操作しているので、全くのアコースティックという感じではない。重く、暗くはないが明るい音楽ではない、切迫感のある弦合奏に2種類の打楽器も低音を響かせ強迫的だ。打楽器には、こうしたフォーク系には珍しく金属系の音がしている。また、ヴォーカルはフォークにはお馴染みの地声系の張り上げる感じではあるが、感情を排していて、これがジャケット・ブックに記載の"ホワイト・ヴォイス"っていう歌い方なのか、ちょっと不思議な感じの歌いっぷり。例えば Hedningarna のスオミ合唱隊のような呪術的なイメージは全くないし、Gjallarhorn でももうちょっと感情的だと思う。やはり、スラヴ的な重苦しさを感じるのは自分だけか、しかしこの重苦しい感じ、決して嫌いではない。ジャケットから受ける印象とはかなり違う。

a0248963_1629664.jpg 2枚目が、2002年の People's Spring 。Kataryna Szurman と Maciej Szajkowski 以外はメンバーが新しくなっている。Maya Mayall Kleszcz (b)、Sylwia Mazura Swiatkowska (vln, trad-fiddle)、Wojciech Szpak MC Krzak (vln, jew's harp)、Piotr Prof. Glina Glinski (baraban dr)。これにダルシマー、コントラバス、トランペット、ハーディー・ガーディーがゲストで加わる。最初の曲のダルシマーから始まりトランペットが加わるところなど、急かされるというか不安感を高めるというか、非常によい。ヴォーカルも複数の違った声が聞こえるのだが、歌い方が同じのため、あまり違っては聴こえない。 
 全体的な緊張感、緊迫感は前作を相当に上回る出来。特にダルシマーとトランペットという音的にも異質な楽器を取り込んで、ベース・ドラムの低音と対比させた音作りは面白い。
 このアルバムも全編トラッドということでポーランド各地から採取された曲のようだ。ポーランドでもトラッドがこういったアレンジに直ぐ乗るというところが、やはりヨーロッパといった感じ。
 14曲目、15曲目のリミックスは、自分たちは「現代のバンドだ」という宣言か、それともちょっとしたユーモアか、よく判らないけど蛇足のように思える。

 世の中、面白いバンドはいっぱいある、でもあまり手を広げすぎると聴く回数が減って、印象に残らないということにもなってくる。そこら辺が難しいところで。
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by ay0626 | 2012-08-05 14:14 | radical-trad

スエーデンの新たなメタル? ディアブロ・スウィング・オーケストラ

 先週も出張で、同じく車中での読書、西澤保彦さんの『彼女はもういない』。これで何ヶ月も積ん読状態になっている本はなくなった。内容は、というといわゆる「黒西澤」満開というか、人間の暗黒面を描き出す、たとえば『フェテッシュ』や『収穫祭』『からくりがたり』と同傾向の作品と言えるか、それらの作品よりもミステリ味は強い。まともな思考ではこんな犯行には至らない犯人の論理は俄には納得できないが、まあそれは狂人の論理だから、論理はひね曲がってはいるが一貫性はある、しかし最後のサプライズは、【ネタばれあり】途中の体の傷の描写や友人の女装癖の唐突な告白など伏線が張ってあったとはいえ【ネタばれ終わり】流石に取って付けた感じで、しかしながら不思議と後味は悪くない。内容は悲惨だが、主人公の気持ちが判らなくもない、微妙な感じ。
 もうじき新作も出るようなので、楽しみだ。

 暑い夏が続く、東京では連日反原発のデモが続いているようで、ご苦労さんな感じではある。仙石さんが全原発停止は「日本の集団自殺」と勇気を持って放言(?)したが、政府の数値の出し方も変にデジタルで、例えば原発を縮小するするにしても、危険度の高いところは何処かの議論や、燃料の廃棄方法の議論とか、必要な論点の提示もない、その上で感情論とのガチンコ勝負となれば、出せる結論も自ずと限られてしまう訳。震災瓦礫の受け入れで、北九州市の住民が訴訟を起こしたとか、自分の身近となれば、生理的嫌悪感が何にも増して優先、それが今の日本の現状、決まるものも決まらず、橋本大阪市長がドジョウ総理を何故か持ち上げた、あの発言のような座りの悪さだけを感じる今日この頃であります、ハイ。

 自分の日常は至って平穏無事で、暑さのせいか多少の寝つきの悪さはあるにしても、ゴールデン・ウィークの体調不良による体重減少も瞬く間に復活、本当は復活して欲しくはないんだが。ポケモンも順調に展開、それにしても今作、色々なアイディアが詰まっているせいか、プレイ時間は既に120時間になんなんとしている。弛緩した雰囲気に弛緩した筋肉、夏なんです、といった感じ。

 こんなときにはタイトでガッツのある音楽を聴きたい、ということで、選んだのはスエーデンのバンド Diablo Swing Orchestra 。2003年に出来た比較的新しいバンドで、なかなか根性の座った、しかしながらあからさまな諧謔味のある音楽を演奏する。先日初期作について書いたベルギーの X Legged Sally に通ずるものがある。

a0248963_2013798.jpg デビューは2003年の EP 、Borderline Hymns。4曲入り16分弱の作品。この作品を全て取り込みフル・レングスのCD として発表したのが、2006年の The Butcher's Ballroom。ball room とは、舞踏をする大きな部屋の意味で、肉屋の舞踏場と聞けばちょっと不穏な感じが漂う。
 音楽もバンド名に Swing とあるとおり、金管も入りキャバレー的なノリのよさにゴリゴリしたベース、クラスタ的なギターに不穏な、不安定なアヴァンギャルド部分が滑り込む。全体的には、メタルというか、ロック主体にジャズを塗した感じ、上手くはいえないが。
 メンバーは、Daniel Håkansson (lead vo, g)、Annlouice Loegdlund (lead vo)、Pontus Mantefors (vo, g, syn)、Anders "Andy" Johansson (b)、Johannes Bergion (cello, backing vo)、Andreas Halvardsson (dr) 。特徴的なのは、女声ヴォーカル、完全なベルカント唱法(つまりはオペラ様の歌唱)で立派な体格から素晴らしい声量の歌唱が聴ける、ロック・バンドでここまでオペラのように歌うのも珍しい。特にアコースティック・ギター伴奏の歌唱(5曲目)など絶品。もう一つがチェロの導入、なかなかエッジの効いた演奏で、ギターとの対比が面白い、かなりの存在感を示す。アコースティック・ギターの使用も効果的、楽曲では7曲目のデジェリドーを使用したエスニックな感じや10曲目のピアノソロなど、バラエティーも豊か。

a0248963_202030.jpg 2009年、Sing Along Songs for the Damned & Delirious (damned : くそ忌々しい、delirious ; 意識の混濁した)。題名とジャケット・デザインとの微妙な整合性というか、何というか。廃墟のような遊園地で無機的な笑みを浮かべた人形のような人物がメリー・ゴーランドに乗る。
 ヴォーカルが男女とも前作よりも演劇的で掛け合いも多く誇張された感じが、ゲスト演奏者を動員した、カラフルさを増した器楽演奏にマッチしている。後半の7曲目、8曲目あたりのアコースティック感もアルバムのメリハリとなっている。前作にも増してチェロの活躍が目立つ。

a0248963_2021920.jpg 3枚目がつい先日発表された、Pandora's Piñata。ますますやりたい放題というか、何でもあり感が強い。近作から金管の正式メンバーとして Daniel Hedin (trombone, backing vo)、
Martin Isaksson (trumpet, backing vo)の2人が加わり、8名の大所帯に。またゲストには弦奏者、木管奏者10名がクレジットされるという派手さ。
 1曲目の Voodoo mon Amour からカッコよさ満開で、全体的に派手目の分厚いアレンジの曲が目立つ。5曲目の奇妙なコーラスは、日本語的な響きがあって、ついつい意味を探してしまう。
 特に後半部分にやりすぎ感というか新しい試みが多い。7曲目はそれまでのメタル色を一掃、弦を大幅に取り入れ、まるでクラッシクの歌曲を聴いているかのよう、ちょっとやりすぎ感も。8曲目は現代音楽風な出だし、9曲目歌謡曲風な弦に導かれ、11曲も同様だが段々に崩壊する音群、後半に行くほど新鮮な感じ、これからどんな方向を志向するのか楽しみ。

 全くオリンピックの話題がないのは、全く興味のないせい。ニュースが全部オリンピックなのでテレビも殆ど見ない。闇サイト殺人の犯人が他の強盗殺人に関わっていた件とか緊迫する政局だとか、もうちょっと注目してもいいと思うが。
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by ay0626 | 2012-08-04 15:43 | rock