日常茶飯事とCDコレクション
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変容していく演奏、アメリカらしさは変わらず カーリュー (3)

 昨日は十数年ぶりに映画を見た、『千年の愉楽』。若松孝二監督作品で、50台半ばの世代にとってはピンク映画の監督というイメージなのだが、近頃は社会派の典型みたいな(というより反権力の象徴的な)感じになっていて、どうも持ち上げられ過ぎのようにも思う。交通事故で亡くなり、これが遺作。先日、原作の感想も書いたが、映画は難解という訳ではない。話を進める要のオリュウノオバと礼如さんの会話が説明的で、余りに曲がなさ過ぎるところはどうにも気になった。しかし、綺麗な男優を揃え女優はそれほどでもないので、原作の「血の宿命」みたいなものは一見して判る(男優の顔を見れば一目瞭然、いい男ばかりですな)。しかし、もともと近代化というのは、そうした「血の縛り」からの解放(ソ連の「ルイセンコ学説」への拘りを見よ)を目指したものであったはず、そこが若松監督らしくなくて、というより若松監督が「逃れられないもの」として描き出してはいけないような気もする(歳を取ると「土着的」なものに回帰するということか、それならば・・・)。中上健次は自分がそうだから、自己弁護・自己肯定の意味もあって、ああいう形で小説にしたのは判るとしても。
 オバ・礼如の説明的会話を別にして、最後のエピソード(達男の部分)は変に蛇足っぽい感じ、また佐野史郎の礼如さんもインテリっぽくてこの人物を通して何が言いたいのか判らない(原作でも影の薄い登場人物であったが)、などなど細かい点については文句もあるが、2時間そう飽きることもなく見れた。

 その後、歩いて桜見物、有名なところだけあって人の数はてんこ盛り。ライトアップされた桜はそれなりの感興はあるもの、東京に比べ開花の遅いこの地区ではやっと一昨日辺りに満開、待ち兼ねた人たちが一度にどっと繰り出してきたのだろう。桜は一度に開花し1週間ほどで散ってしまう、その潔さみたいなものが日本人に合って「同期の桜」などに繋がる訳だが、葉もない枝に花だけが大量にくっ付くのはある意味不気味で、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を思い出すまでもない。

 と日本ネタの後で、アメリカン・アヴァンギャルド・ジャズロックの Curlew の紹介の3回目、全く脈絡がありませんな。
 今回の紹介は、Chris Cochrane の加入した2枚、90年代半ばの作品。

a0248963_1783439.jpg Paradise 、1996年。録音メンバーは、George Cartwright (as, ts)、Chris Cochrane (g)、Davey Williams (g)、Samm Bennett (ds)、Ann Rupel (b)、ゲストとして Jim Spike (bs, ss)がクレジットされている。チェロの Tom Cora が抜け、ツイン・ギターの構成になった。Chris Cochrane は、No Safty のメンバーだから、Ann Rupel とはもと同僚の関係。Samm Bennett も Third Person で Tom Cora と協力関係にあったので、狭い範囲でのお付き合いというのがよく判る。ここら辺りのニューヨーク・アンダー・グラウンドは、似たようなメンバーで夥しい録音を残している。
 演奏は、かなりロック色を強くした感じ。最初の Gimmie という Ann Rupel 姐さんの作品から重いベースがブンブンと唸り、ツイン・ギターが変な音を撒き散らすが、作曲も練られており、Cartwright おじさんのアルトもいつもの通り伸びやかで軽い音なので、アメリカ的な明るさは今までの作品と大きな違いはない。

a0248963_1785488.jpg Fabulous Drop 、1998年。ドラムが Bennett から Kenny Wolleson に交替している以外は前作と同様(ゲストはなし)。
 基本的には前作と同様の作風だが、やや Cartwright おじさんのサックス・ソロにフリーキーな音が多いような気がする。Cochrane と Williams のギターもしっかりソロを取るが、それ程の違いが聞き分けられる訳ではない。珍しく Ann 姐さんが Neither, Baby という曲でピアノを弾いているのが目を惹く程度。


 昨日、本屋にも久しぶりに寄ってみたら、創元推理文庫で『大坪砂男全集』の1巻、2巻が出ているのを見つけ、1巻のみ購入。編者は日下三蔵氏、何年も前から出る出る、といわれていて、それでもなかなか出なくて、これも企画倒れかと思っていた。72年に出版された薔薇十字社版の全集は所持してはいるのだが、もって廻った文章や複雑過ぎる構成などで、読むのに相当苦労した覚えがある。数年前にも一度全部読み返そうとして挫折していたのだが(本が重すぎる、寝床ではなかなか力が要るといった物理的な理由もあって)、今回は文庫ということもあり(値段は決して安くはないのだが)再度の挑戦と相成った次第、積読にならぬとよいのだが。
 
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by ay0626 | 2013-03-31 16:52 | jazz

ブルー・ノート 1964年 ウェイン・ショーター (2)

 父親が死んだので、葬式やら手続きやらで先週はブログを綴ることが出来なかった。病院・葬儀場・葬式(坊主)に対して書きたいことは沢山あるのだが、いくら実名を晒さぬブログとはいえ差し障りが多過ぎる、もしこのブログがあと2年でももてば、少しずつ書けることもあるだろう。

 25日の週に入り、手続きも先に済ますべきものはほぼ終了し、やっと会社にも行けるようになった。しかし、仕事では何から手を付けるべきか頭の切り替えが上手く行かない。調子も今一歩といったところで、夜の寝つきも悪くなる。
 それでも、随分前から楽しみにしていた『是巨人』のライブだけは、よろよろと見に行った。『是巨人』は、吉田達也(ds)、鬼怒無月(g)、ナスノミツル(b)のパワー・トリオ。吉田さんなら『高円寺百景』、鬼怒さんなら『ボンデージ・フルーツ』、ナスノさんなら『アルタード・ステーツ』というのが自分の中での位置付けなのだが、このトリオも充分にいける。曲は全て吉田さんが書いて、凄まじい変拍子のなか、1曲の中で曲調が目まぐるしく変化する。ギター・トリオということもあってか、『高円寺百景』のようにもろ Magma という訳ではなく、たとえば Samla Mammas Manna をハードに(最後期の Famly Crack をもっとゴリゴリ)したような感じ。いつもの通り、水割りにミックス・ナッツのお伴だったが、体の調子が充分でなく、またスピーカの前に陣取ってしまって、轟音の演奏(ナスノさんのMCで「音楽にはそれに相応しい音量がある、是巨人の音楽にはこの音量が最適なのでご勘弁を」というようなフレーズがあった)が始まるとバス・ドラムとベースが腹に来る、テーブルに肘を着くと振動が体に伝染する、アルコールが頭の中で沸騰する、などファースト・セットで疲労困憊の体たらく、それでも20分の休憩のうちに心を落ち着かせ、2部はかなり楽しめたが、アルコールの分解がことのほか悪く、頭の中の沸騰は家に帰るまで(家に帰った後も)続いたのであった。
 お客は30人強といったところ、あれだけのテクニックを持ったアンサンブルを見せてチャージが3,200円、飲み代・食い代を含めて5,000円以内、嵐だのスマップだののコンサートに行けば遠く遠くから見ても1万円近い入場料を取られるだろうに、オマケに歌伴は全て打ち込みだったりして。不条理といえば不条理だが、『是巨人』の音楽は絶対に万人受けはしないはず、演奏者本人もそれは充分承知の上。
 彼らの音楽のメロディーを憶えようなどと無謀な試みはしないのだが、それでも「ジャクソン」という曲は前も聴いたことがあるような気がした。あれだけの複雑なアンサンブル、涼しい顔で演奏し、鬼怒さんナスノさんは殆ど汗をかかず、吉田さんもタオルで顔を拭いたのが1度だけ、それが仕事のベテランとはいえ大したものです。

 と今回は、(上に書いた話と)全く関係のない Wayne Shorter の初期~中期 Blue Note の作品。先回書いたが、Blue Note 最後期3部作を聴いて、あまりにも良かったため、それじゃあもう一回試しに・・・と思って聞き直し始めた。25年前の耳には余り魅力的には聴こえなかったが、今の耳には極上の音、それでもって1枚当たり600円~700円程度の価格、ウォークマンに突っ込んで、通勤のお伴になっております。

a0248963_13185341.jpg Shoter は、1959年に初リーダーアルバムを吹き込んだ後、62年までに Vee Jay レーベルで3枚のレコードを残す。そして、1964年から Blue Note での録音を開始、67年まで通常のジャズ(という言い方はおかしいかも知れないが)形式で8枚の作品を残す。65年からは、Miles のクインテットに参加するから(ESPは1965年1月の録音)、その活動と平行して自身のリーダーアルバムを作成していったわけだ。67年まではテナー・サックスのみを演奏している。
 Blue Note での最初のリーダー作が、1964年4月録音の Night Dreamer。録音メンバーは、Lee Morgan (tp)、McCoy Tyner (p)、Reggie Workman (b)、Elvin Jones (ds)。当時絶頂期の Coltrane カルテットのピアノとドラムが参加、流石に味のある演奏を聴かせる。Shorter について良く使われる言葉は「黒魔術的」、しかし、自分にとって若干ミステリアスな感じは受けるものの、「黒魔術」という言葉ほど邪悪な感じはなく、ある意味明るいともいっていいようなところがある。奔放にならず、抑制的で理知的、クネクネとしたソロは今の自分の耳にピッタリ(フリーを聴くにはちょっと歳を取り過ぎた?、いえいえまだ頑張れますが)。McCoy Tyner のピアノが非常にリリカルで、最高。
 最初の曲が Night Dreamer 、最後にサックスのソロを持ってくるという変わった構成、それがフェイド・アウトするのだが、もっともっと聴いていたいと思わせる。2曲目も変わった曲想、3曲目はトランペットが加わらないカルテットでの演奏、非常に詩的な演奏(Virgo とはおとめ座のこと、何を隠そう、自分もおとめ座の生まれ!)。4曲目もカルテットでの演奏で、忘れがたい変てこなメロディーを持つ。最終曲は Armegeddon 、神と悪魔が最終戦争を行うというヤツ、なかなか雰囲気を出しております。この後、CD 版は Virgo の別ヴァージョンが付け加わっている。Shorter の作曲家としての才能が強く出たアルバム、昔は何が気に入らなかったのだろう。

a0248963_13191447.jpg 次の作品が JuJu 、1964年8月の録音。前作から Mogan の抜けたカルテット。メンバー的にいえば、Coltrane カルテットと同等ともいえるのだが、受ける印象は全く違う。Coltrane が真面目で「努力してます!」感を全面に押し出して、密度の濃い演奏をこれでもか!と悲壮な感じがするのに対し、Shorter は浮遊感を持ったある意味捕らえどころのない演奏、この違いがバック(リズム・セクション)にも影響するのだろうか。
 とは言え、本作品、他のリーダー作にはないくらいよく「吼えた」演奏をしている、冒頭のJuJuなどその典型、なかなか根性の入ったソロを展開する、Elvin のドラム・ソロも曲の流れの中でアクセントになっており、拍手。その他の作品も印象に残るメロディーを持っていて、特に3曲目の House of Jade はよい。
 昔は、トランペットなど、金管の音が好きではなくて、それ故、Miles よりも61年以降の Coltrane が好きだったのだが、Shorter の Blue Note 初期~中期作品などを聴くと、むしろワン・ホーンだと物足りない。この作品や Et Cetra 、Adam's Apple なんかより金管の入っている作品のほうが気持ちがよい、また別項で書くが All Seeing Eye のテーマ提示部の見事なアレンジを聴くといいなあ、と思ってしまうのである。やっぱり人間は変化するものだ(なんぞ、偉そうに頷いたりして)。

 もう直ぐ新年度、早いものですね、1年も4分の1終わり。桜の花も満開、春爛漫といったところ。気分を新たに行きたいものです、おじさんも。
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by ay0626 | 2013-03-30 11:33 | jazz

薄っぺらな感覚と忘れられない声 スラップ・ハッピー

 朝から晴れた空は、それでも若干靄が掛かって、やはり春の空。目が乾くのは、歳のせいか、花粉のせいか、ただ単に空気が乾燥しているせいか。加湿器の掛かった部屋では不快感を感じないので、空気のせいということで。

 金曜日、仕事というのは人間にとって何なんだろう、と思うようなことがあった。自分にとっては、仕事とは生活の糧以上の意味はないが、生き甲斐にしている人もいる。賃金以上に仕事をして、それで喜びを感じる、それをいけないと他人がいうことでもないだろうが、どうも傍で見ているのが嫌になってくる。それじゃあ、見なければ良いのに、ついつい見てしまう、例えばエレファント・マンを見に行く人のように。デイヴィッド・リンチの『エレファント・マン』、心温まる物語、ヒューマニズムの物語のように日本では喧伝されたが、先入観なしに見りゃ判る、あれは唯のフリークスに対する猟奇的な興味で撮られた映画だと。同じことで、身を削って一生懸命仕事をすることが一部の人には大変な美徳であるのに、同じ人を自ら率先して搾取の対象になる醜い人々と感じる人もいるのだという事実。力んでも仕方ないが、そこら辺の価値観には深い溝があるように思えて仕方ない。

 また、訳の判らない前振りから入りまして申し訳ない、はっきり書くといろいろ差し障りもあるので。自分が怠惰な考え方の持ち主だということのみ書きたいだけであります、本当。

 今回は、エピキュリアン達が、ひょんなことから思想に染まりそうになってしまう、その一歩手前で留まった(しかしながら一人は取り込まれてしまう訳だが)、そんな感じの集団 Slapp Happy について。
 Slapp Happy は、1970年代初期、イギリス人(Anthony Moore)、ドイツ人(Dagmar Krause)、アメリカ人(Peter Blegvad) で作られたポップ・グループ。ポップ・グループといっても Anthony Moore は現代音楽畑の人で、初期の3枚のアルバム(『Pieces from the Cloudland Ballroom (1971)』、『Reed Whistle and Sticks (1972)』、『Secrets of the Blue Bag(1972)』)は、まるでその通りの現代音楽、自分ももってはいるが片手の指の数ほどの回数も聴いていない。まぁ、そんな人のグループなので、ポップ・グループといっても・・・・。

a0248963_17412985.jpg 最初のアルバムが Sort of 、1972年。ドイツの Polydor から、なんとメジャー・レーベル!Uwe Nettelbeck という山師的なプロデューサーの甘言に乗せられたのが Polydor 、Fausut や Slapp Happy のアルバムを作った。全く売れるはずもなく、Faust のファーストなど1,000枚も売れなかったという。しかし、今度はイギリスの Virgin が目を付ける。Faust の Faust Tapes など話題作りに LP を EP の値段で売り、間違ってヒット・チャート入りなどもしてしまう。変な時代であったことは確か。
 このアルバムは、Slapp Happy の3人に加えて、Faust の Werner "Zappi" Diermaier (ds)、Jean-Hervé Péron (b)、Gunther Wüsthoff (sax) が演奏。もともと Faust の演奏自体、薄っぺらというか、特にドラムなど単調でその印象が強いのだが、このアルバムでもそんなところが出ていて、今聴くと余り魅力的とは言い難い。このアルバム、ずっと廃盤の状態で、CD 化されたのが1999年になってから、ということもあって Casablanca Moon を聴き慣れた耳には何とも聴き所の少ないように感じたものだ。

a0248963_17414882.jpg 2枚目は、Virgin から出た Slapp Happy (Casablanca Moon)、1974年。ヴァイオリンに導かれる Casablanca Moon から始まる本作品、奇妙な明るさに加えて曲の良さもあって、非常に好きな作品。多数のゲスト・ミュージシャンを加え、様々な楽器の響きもカラフル。もともと、Blegvad だけじゃなく Moore にもポップな部分が多分にあり、ソングライターとしての才能がここで一気に花開いたという感じなのだろうが、やっぱりちょっと捻った(世の中を斜めに見るような、言葉をこね回したような)ところは一般受けするものではなかったようだ。この作品は1993年に Desperate Straights と2in1の形でCD化されたが、11曲目までが本作、12曲目以降が Desperate ~、そこで雰囲気がガラリと変わる感じが聴いていても明確に判って、ちょっとビックリした。

a0248963_17425422.jpg 2枚目のドイツ録音版というべき作品が、Acnalbasac Noom (Casablanca Moon の逆綴り)、イギリスの Recommended Record から1980年に発売されたもの。この作品は、1973年の録音、殆どの曲が Casablanca Moon と重複している、というより Casablanca Moon は編曲を変えて再録音されたという方が正しい。結局のところ、Polydor が Nettelbeck に騙されたことをようやく悟って、本作をお蔵入りさせた、ということだろう。
 ここでも Faust のメンバーが加わっている、Wüsthoff のクレジットはあるが余りサックスの音は聴こえないような気がするのだが。Casablanca Moon に比べるとあっさりとした印象、音がクリアに取れており、Dagmar の特徴的な声が気持ちが良い。

a0248963_17431237.jpg Henry Cow と合体後、Slapp Happy を主体として作成されたのが Desperate Straights 、1975年。もう1作、Henry Cow 主体で作成されたのが In Praise of Learning。
 1993年に Casablanca Moon とカップリングで CD 化され、その後単独で発売もされた。先ほども書いたが、Casablanca Moon と続けて聴くと、その違いにビックリする、何しろ冷たい、厳しい印象のアルバムなのだ。アルバム題名も、和訳すれば『絶望へ、一本道』といった感じか、Dagmar の声も掠れて鬼気迫る感じだし、途中ジャズ風の曲(Desperate Straights)や最後のインスト曲(Caucasian Lullaby)も峻厳そのもの。享楽的な Blegvad だけでなく遊び心のあった Moore も Cow の思想に付いて行ける人ではなかったのであろう、Cow との合体期間は非常に短く終わり、しかし Dagmar だけは Cow に残るという奇妙な結果に終わる。Dagmar は、その後 Art Bears や News from Babel にも加わり、80年代半ばまで Cow 一派と行動を共にする。

a0248963_1743458.jpg その後、長い休止期間を置いて Ça Va (OK の意)が発表される、1998年。力の抜けた、落ち着いたポップになっており、そういう意味では歳を取ってきたのかも。この時、Moore 50歳、Dagmar 48歳、Blegvad 47歳。皆、地が出たというか、好きな音楽を素直にやるようになってきたということだろう。特に Dagmar の声にキンキンした感じがなくなり、非常に落ち着いた(その分、特徴も失くしてしまったともいえるが)分、聴き易くなっている。ジャケットデザインもなかなか洒落た感じである。
 このあと、Slapp Happy 名義では2001年に Live in Japan というアルバムがあるが、アルバムを購入するまでの興味はなくなっていた。

 Henry Cow という存在がなければ、今でも聴かれるグループであったか。Blegvad も Moore もそれなりに才能のある人だから何枚かのアルバムを残したろうが、ここまで残る人たちであったかどうか疑問、思想に馴染めなくとも、それ故後に残る、それをどんな風に感じているのだろうか。
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by ay0626 | 2013-03-17 17:31 | rock

墓場からの音楽 アントゥー・アッシーズ (2)

 CD 関連の話題から。
 Makám の Approaches という作品、結局オークション・サイトでも入荷せず、酷い話で返金も受けられず(手続きが面倒で)、宙ぶらりんのまま。オークション・サイトも在庫の確認ぐらいちゃんとしろよ、といいたくなる。こうなるとアマゾンのマーケット・プレースの出ものに手を伸ばそうかと、しかし、6,970円の価格は内容に比べて如何にも高過ぎる、思案中。
 Stephan Micus と Estampie の新作を手に入れた。Micus の作品は、目新しいところはなくいつもの感じだが、70分近い収録時間は過去最高かも。Estampie の方は今までとは異なりスェーデンの民謡を取り上げ、そこにはHedningarna の作品も含まれている。詳しくは、またその時に。

 眼鏡を直してもらって何とか本が読めるようになったので、積読本2冊の小林泰三さん作品のうち『大きな森の小さな密室』を読了。小林さんの作品は最初の『玩具修理者』から読んでいて、『ΑΩ』など本当に好きで、『ネフィリム 超吸血幻想譚』も世評は低いものの、その暗さゆえ印象に残っている。本ブログでも紹介した『セピア色の凄惨』や『惨劇アルバム』もなかなか(特に連作という一定の枠があることで作者の意図が見え易いというところがあって)こちらのツボに嵌った作品集だった。ところが、本作品集、世評がまあまあの割りにどうも作品世界に入って行けない、自分にとっては面白くない。
 どうした訳だろう、とつらつら考えた。例えば『セピア色の凄惨』や『惨劇アルバム』は、小林さんの邪悪な論理が加速することで物語の異常な世界をカタストロフに導くのに対し、本作品集『大きな森の小さな密室』がミステリ作品集であることで、つまりは世界がマトモに(常識的・論理的に)存在することが前提なので、事件の起こる世界の奇矯さ(前提条件にそもそも違いがある奇矯さ)にどうも違和感を残してしまう。最初の作品「大きな森の小さな密室」、二つ目の「氷橋」などは、まだミステリの感じはある(世界自体がまだマトモ)が、三つ目以降となるとどうも通常のミステリ読みには付いていけない、イライラする部分が多過ぎる。特に「更新世の殺人」と「正直者の逆説」にはちょっと閉口した。結局のところ、自分にとってのミステリとはどんなに奇妙な現象でも、現実世界のなかで現実的な論理で決着する、その約束が守られるのが大事なんだろう、と思った次第(それでは、三津田さんの作品には現実世界とは懸け離れた現象が表出するではないか、それはどうなんだ、と言われそうだが、西澤保彦さんの初期のSF本格と同様、作品の中ではそういう現象が起こるという前提で書かれている、最初からゲームの前提条件を明らかにしている訳で、使われる論理は現実世界のもの、その点が小林さんの「ミステリ」とは明らかに異なる)。
 ただ、「自らの伝言」における江本勝や「更新世の殺人」での藤村新一に対する批判というか非難は全く同感で、少しでも考え疑えば直ぐに判るような出鱈目が、大きな話題になったり賞賛の対象になるのはどうしてなのだろう。江本勝の噴飯ものの理論(「水に意思がある」)が何で話題になるのだ、人間はそうであって欲しいことを真実にしたい、と思うもんなんだろうか、それとも単に馬鹿が多いだけのことか。「更新世の殺人」で権威者の言うことに疑問を呈さないが故に「150万年前の死体が昨日死んだ人のように新鮮」ということになるわけだが、それが最後の最後まで「不思議」として残ることに作中人物(新藤礼都)同様のイライラを感じてしまい、それが面白さよりも不快感に繋がってしまうのだ(作者の意図はそれを面白がってもらいたいのだろうと思っても無理だった、ということ)。
 もう1冊、『完全・犯罪』も半分ほど読み進めている、また読了時点で報告します。

 と、唐突に Unto Ashes 。Estampie と Stephan Micus のことを書いていて思いついたのが彼ら。しかし、Micus や Estampie よりもストイックさ(?)は少なく、現代楽器やエレクトロニクスの導入が無造作であります。

a0248963_18203084.jpg Unto Ashes は、聖公会(イギリス〈正確にはイングランド〉国教会)の祈祷書の一節から採られたもの(earth to earth; ashes to ashes, dust to dust)。葬儀の際に使用されるもので、彼らの曲が葬送曲のように聴こえるのもそうした訳か。灰の水曜日(復活祭の46日前の水曜日のこと、日本でいえば桃の節句とかと同じような感覚か)でも同じフレーズを口にし、灰で信者の額に十字を切るそうだ、全くの縁なき衆生故、実際に見たことはないのだが。
 Grave Blessings 、2005年。メンバー表記は、Micheal Laird (g, Appalacian dulcimer, cello, ds & perc, hummered dulcimer, hurdy-gurdy, p, vo)、Natalia Lincoln (vo, kbd, p)、Mariko (vo)。Mariko という人、Estampie の最新作(Secret of the North)には正式メンバーとしてクレジットがあり、ヴァイオリンとヴォーカルを担当している。ゲストとしては、チェロ、バラライカ(ロシアの撥弦楽器)、フルート、フレンチ・ホルンなどの表記がある。
 いつものことながら抑揚の少ないメロディー・ラインに女声中心のコーラスが乗っかるという音楽。暗いかというとそうでもなく、まぁほの暗いといった感じか。3曲目や4曲目、10曲目は、エレキ・ギターの音がぐっと卑近な感じを醸し出す、併せて4曲目はあからさまな打ち込みリズムで、ちょっとどうかな、違和感あり捲くり。7曲目はテープの逆回しから始まる、日本語めいた感じの歌唱(聴き取れませんが)、その題名も Three Haiku !
 そうした雑なところも狙ってやっているようなところがある。Projekt というレーベル自身の持ついかがわしさみたいなのが(Black Tape for a Blue Girl ほどじゃないにしても)そこはかとなく出ているアルバム。

a0248963_18205934.jpg Songs For A Widow 、2006年。今回もメンバー・クレジットは、Laird 、Lincoln 、Mariko の3名、Mariko は今回はヴァイオリンも担当。その他、ゲストにチェロ、ハーディー・ガーディーなど、若干前作よりもシンプルな感じ。
 最初の曲は、ハーディー・ガーディーにドラムという取り合わせの葬送曲(Funeral と題名にある)。2曲目は、ハンマード・ダルシマーに弦楽器は使っているが余り中世感はない。3曲目は、中近東めいたメロディー・ラインにダルブッカ風のパーカッション、6曲目はエレキ・ギターと大袈裟なパーカッション・・・といういつもながらの出来。こうなってくると、中世風の BGM となって、あまり真面目に聴こうとしなくなる(製作側はどういう風に思って作っているのだろう、聴くだけ野暮か)。偶に引っ張り出してきて半睡半醒の状態でぼんやり聴くのが最も正しい聴き方だったりして。

 陽も伸びてきて、会社を出る時間はまだ明るい状態、寒い日もあるが、桜の開花情報なども流れるようになった。心配していた娘の就職活動もどうやら希望のところから内定が出たようでほっとしている。もうじき新年度、新しい年度には新しい楽しい出来事が起こるといいね、もう3月も半ば過ぎ。
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by ay0626 | 2013-03-16 18:03 | dark-wave

その後のはっぴいえんど スタイリスト&ギタリスト 鈴木茂

 昨日が凄く暖かくてこのまま春に突入するかと思ったが、今日は風が吹いて雨が降り、若干寒いくらいになった。今時分は寒暖の差が大きく、天気も変わりやすいのか。ニュースで見ると東京以西では春爛漫の気候、九州では夏日になったところもあったのに、北海道では猛吹雪、日本って案外広いのだと改めて思うのでありました。

 来年卒業予定の大学生諸君は、就職活動も山場を迎え、4月ともなれば最終面接に臨むことになる。我が娘も就職活動真っ盛り、大学が北海道にあるものだから移動に掛かる時間もお金も相当なもので、苦労しているようだ。どんな会社に行きたいのか、じっくり話したこともないので判らないが、第一志望のところに受かればいいと思っている。
 自分が社会に出たのは、何度も書いたが80年代の始めのころ、70年頃の円高不況も治まり企業の採用活動も活発になってきた時代。今のようにエントリー・シートに目一杯自己アピールを書き連ねることもなく、そのかわり親父や兄弟姉妹の職業や会社での地位など、平気で書いたしそれは当然のことであった。愛読書や尊敬する人物など、今では思想信条に触れると忌避される事項も勿論記したものである。
 昔は、企業も入ってくる人に「全人格的隷属」を求めたし、それに見合う経済的恩恵(つまり賃金の上昇ですね)を与えることができた(と思った、ということではあるが)。それが、今ではどうだ、ブラック企業といわれる「人格的隷属」のみを求め「経済的恩恵」の全くない会社まで現れた。そうなれば、じっくりと「良い」会社を選ぶしかない。若くこれから社会に出る人たちに言いたい、働く意味を考え、決して自分を安く売るなと。自分の働きは本来は給料以上だ、矜持を持てと。豪く真面目なことを書くようだが、搾取されてはいけない、搾取を認めてしまえば世の中、もっともっと悪くなっていく、自分を持ち、自由な時間を作りなさいと・・・。

 と、トンでもない前振りから始まりましたが、危険な思想の持ち主というわけではなく、極真っ当に社会人生活を営んでおりますのでご安心を。ちょっと今の若い人たちが可愛そうな気がして仕方がないので。
 今回は、その後の仁義なき戦い・・・じゃなく「その後のはっぴいえんど」、最後の人、鈴木茂さんの巻。細野さん、大瀧さんと CD をぼちぼち買い集めてはいたのだが、鈴木さんについては Band Wagon 以外リアルタイムで聴いたことがないし・・・と思っていたら、2008年にクラウンの全アルバムを収めたボックス・セットが発売されて、9千円もしたので散々迷ったが、年末くらいに購入。年が明けた09年2月、鈴木さんは大麻取締法に引っ掛かって逮捕・拘留、このボックス・セットも発売中止となった。そういう意味では、貴重なセットを持っていることになる。

a0248963_1826407.jpg 鈴木茂さんの最初のソロ(リーダー)アルバムは、1975年3月の Band Wagon 。75年3月といえば、高校1年の終わり、高校生活も慣れた頃。この頃は、まだプログレや現代音楽に嵌り込む前で、このアルバムは本当に良く聴いた。予約までして、大きなポスター(ジャケットと同じ写真の)を貰い、部屋に飾ったのを憶えている。この頃の最も好きだったのが「はっぴいえんど」一派で、細野さんの「Hosono House」と大瀧さんのファーストも聴き込んでいて、やっと鈴木さんのソロが出ると、大きく期待したのだろう。
 75年には、細野さんの「トロピカル・ダンディー」と大瀧さんの「ナイアガラ・ムーン」も出た年で、ここまでは彼らの音をリアルタイムで追いかけていた訳、この後音楽の趣味も変わって行き、殆ど彼らの音楽も聴かなくなる。
 このアルバムは、アメリカ録音ということもあるのか、非常に洗練された乾いた感じで、細野・大瀧の最初のソロにあったようなウエットさが全く感じられず、ちょっとびっくりした。この乾いた感じは凄く好きで、松本隆さんの歌詞(これも以前に比べれば凄く「乾いた」感じ、「人力飛行の夜」や「微熱少年」にはウエットな部分がちょっとはあるけれど)も「ずいぶんとモダンになったものだ」と高校生らしからぬ感想を持ったものだ。最初の「砂の女」から伸びやかなギターと軽快なキーボード、そしてセンスのあるブラス・アレンジと、今聴いても十分聴ける。細野・大瀧のファーストが若干古びた(一昔前の)イメージであるのに対し、このアルバムはそうしたところが全くない。
 自分が「春」のイメージの曲を選ぶとしたら、このアルバムに収録されている「100ワットの恋人」、「別れる間際に手渡されたセーター、編んでるうちに春になったの」、なんとも忘れられないフレーズで、ここで冒頭の一文に繋がるのであります。

a0248963_1827636.jpga0248963_18274293.jpg 2枚目以降は、リアル・タイムでは聴いていない。2008年のボックス・セット購入時に初めて聴いたものばかり、自分も購入したは良いが、1回か2回しか聴いていない。鈴木さんは当時歌謡曲のアレンジなどしており、ちょっと安易なストリングスを付けた歌謡曲っぽいものが多い。

a0248963_18275972.jpga0248963_18281420.jpg 2作目の LAGOON (1976)は、鈴木さん自身もそれなりに認めているようだが、その後の作品については、そう好きではないようだ。LAGOON (1976)、Caution! (1978)、TELESCOPE (1978)、COSMOS'51 (1979)と続き、85年には「星導夜」というアルバムが出ているが、未聴。ジャケットのみを並べておく。

 春、暖かくなれば心もウキウキ、となればいいんだけれど。就職活動の学生さんたち、頑張ってね。就職試験に落ちても、それは相性が悪かっただけのこと、運が悪かっただけのこと、決して人格否定されているわけではない、自分を採らなかった狭量な企業をせせら嗤うくらいの余裕をもって。
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by ay0626 | 2013-03-10 17:26 | rock

64年のヨーロッパ楽旅 アルバート・アイラー (4)

 近頃、いろいろなガタガタがあって、ちょっと気分の悪くなることもあったが、それは年の功、なのか感性が摩滅したせいなのか判らぬが、熱くなることもなく対応した。
 このガタガタの中で考えたのは、ヒエラルキーについて。ヒエラルキー(ドイツ語ではHierarchie、英語では hierarchyで、どちらも発音がヒエラルキーではないのが面白い)とは、階層社会、階層性のこと。先日読んだ中上健次の『千年の愉楽』の舞台「路地」は、ヒエラルキー的にいうと最下層、底辺層ということになろうが、それはここでは関係ないので割愛。今回思ったのは、ヒエラルキーの上位層は、「ヒエラルキー」という概念を意識するか、ということだ。例えば人事の仕事で、ある部署(例えばAとする)から他の部署(B)にある人物を異動させる、そのとき異動をさせる者はAとBに仕事の価値の上下関係を意識したことがない、機能的には同等と見ている。それが、異動させられる当人にとっては「格落ち」と感じる、つまりAという部署とBという部署に価値的な上下関係を意識していることがあるということだ。そして厄介なことに、異動をさせる者は往々にしてAという仕事をした期間が長いことが多い。ヒエラルキーの上位にある者は、下位の者が感じる「嫌さ」を感じることが出来ない、従ってヒエラルキーが存在すること自体を意識できなくなる。これが、植民地統治など、全く文化・風習・言語の異なる人々に暴力的収奪を行うことが中心の活動となれば、上位者・下位者とも階層性を強く意識することになるだろうし、また卑近な例を採れば会社の中に常駐する業者など明らかに階層性を感じるだろう。しかし、同じ会社の中のそうした微妙なヒエラルキーについていえば、それは下位者のみが感じることになる、それが鬱積することもある。
 具体的には書けないこともあって、判り難い言い回しになってしまったが、「未だに存在する関係性」に若干の自戒を込めてここに記す次第。

 今回は、久しぶりに Albert Ayler 。アメリカ社会のヒエラルキーの底辺であった黒人の抵抗の手段でもあった(あまりそうした考え方には組したくないが)フリー・ジャズの旗頭であった Ayler は、傑作 Spiritual Unity 録音後、ヨーロッパへの演奏旅行に出掛ける。Spiritual Unity で組んだ Sonny Murray と Gary Peacock に加えて、Ornette Coleman の片腕であったトランペット奏者 Don Cherry 、このカルテットで3枚のアルバムを残す。といっても Ayler の生前に出たのはスタジオ録音の Ghost だけであったが。

a0248963_1826121.jpg 録音順で紹介すると、先ずは The Copenhagen Tapes。1964年9月3日のコペンハーゲンのクラブ・モンマルトルでの演奏(トラック1~6)と9月10日の同じくコペンハーゲンでのデンマーク・ラジオ・スタジオでの演奏(トラック7~10)を収める、2002年に初出。クラブ・モンマルトルでの演奏は、一部が海賊盤もどきのLP でこの CD が出る前にも聴くことができた模様。
 Don Cherry というトランペット奏者、決して嫌いではないが(学生時代に Cherry の Eternal Rhythm は愛聴していたし、Live in Ankara も不思議な演奏で好きだった)、どうも Ayler には似合わないような気がして仕方がない。Cherry の持つ上手さ、装飾性(テクニックといってもよいが)と噛み合わない、Ayler もテクニックは凄かったということのようだが、残された録音を聴く限り、感性が剥き出しになっているような演奏が多いように思う、それが Cherry のやり方にあっていないような気がする訳。
 モンマルトルでのライヴ録音は、音は悪くはないのだが、一部リールが撚れているようなところがあって、若干気になるところも、しかし Cherry もまずまず熱く対応しており、Cherry 入りの演奏では上位に位置する感じか。ラジオ・スタジオの録音は、これもテープの撚れがあるが、スタジオ録音とライブ録音の中間といったところ、Peacock が根性の入ったソロを取るのが聴きもの。紹介のスピーチまで収録されていて若干鬱陶しい。

a0248963_18262272.jpg 次がスタジオ録音の Ghost 、1964年9月14日録音。デンマーク Debut での作品。この作品、Cherry と Ayler の方向性の違いと録音が細い(何と書いてよいのか判らないのでこう書いておく)のが相俟って、メンバーが豪華な割には今一歩の印象。Debut には、他に My Name Is Albert Ayler と Spirits という2枚のアルバムがあるが、この2枚よりも劣るか。
 録音曲は、Ghost 、Children 、Holy Spirit など毎度お馴染みの曲ばかり、とはいっても出だしの1分くらいのテーマ提示が済んでしまえば、直ぐにフリーな演奏に突入するのだから、曲といっても演奏のきっかけくらいといういう意味で。

a0248963_18263644.jpg 3枚目が、The Hilversum Session 、1964年11月9日、オランダ・ヒルバーサムのラジオ・スタジオでの録音。音が素晴らしく良く、スタジオ録音として充分に聴ける作品。
 曲の演奏スタイルとしては、前作と同様だが、音が生々しく採れている分、こちらに軍配が上がるか。Cherry のソロは端正な感じで、やっぱり上手いなと思う反面、感覚の違いもあるのが判る。ヨーロッパ楽旅もそろそろ終わろうかという頃、アンサンブルにも纏まりがあって、大分練れて来た感じ。この時期の Ayler の作品の中では特に好きな一枚。
 お馴染み、後ろで密やかに聴こえる唸り声、これって本当に Murray の声なんだろうか。

 ということで、何が書きたいのか益々訳の判らなくなってきた当ブログ、もうちょっと読書やライヴに行ければその感想が書けるのに、気力・行動力が落ちていく中で頭の中の抽象概念だけが肥大気味、何とも致し方のないところ。
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by ay0626 | 2013-03-09 16:45 | jazz

劣化ユニヴェル・ゼロ ダニエル・ドゥニのソロ

 3月3日、雛祭り。母方の祖母の十三回忌ということで車に乗って出掛けた。車に長時間乗るのは久しぶりで、運転は嫌いではないが、温室効果で車内の温度が上がるのと、太陽に向かう部分だけ暑くなるのには閉口した。
 回忌というのは、先祖への追善供養のことをいうが、何で十三回忌は12年目に行うのだろう、もっといえば1年目が一周忌で2年目が三回忌だからそこで齟齬が発生しているわけだが、昔からそういう風に行われてきたのだから文句を垂れても仕方ないことか。その後の七回忌、十三回忌、三十三回忌は鎌倉時代以降に付け加わったと聴く。長生きになってしまい、高齢で死ねば、供養する子供も当然歳を取る。七回忌、十三回忌くらいまでは出来ても、三十三回忌など供養する人も生きてはいない。昔のように同じ土地にその一族が縛られることもなくなったので、余程の名家でなければ、三十三回忌まで行うこともない。
 自分のようにもともと信仰心の欠片もない人間にとっては、死んでしまえば何ともならぬ、と思っているから、果たして七回忌まで憶えていられるか、両親にそうした供養をやって欲しいかどうか確認しておかなければ。所詮、宗教行事なぞ、死んでゆく人の意思を尊重するだけのこと。自分について言えば、葬式も墓も一切要らぬ、焼いた灰や骨は細かく砕いてそこら辺に撒いておいて貰えばそれで結構。

 3月になって、陽は長くなり明るさも増してきたのだが、寒い日が続く。年度末に向けて、いろいろありそうで落ち着かないが、実際忙しいことがあるわけではない、気分だけの問題か。

 ということで、今回は Univers Zero のリーダーでパーカッショニストの Daniel Denis のソロ作の紹介。何で Denis かというと1枚目のアルバムの題名に「Ghost」が入っていて、それが祖先の霊に通じたから。えっ、それじゃあ Albert Ayler でも同じじゃないかって?、その通り唯のこじ付けです。

a0248963_19561759.jpg Sirius And The Ghosts 、1991年作、聴き易い劣化 Univers Zero といった感じで、Denis もドラマーというよりもキーボードに力が入っている。録音メンバーは曲ごとに異なるが、 Dirk Descheemaeker (sax, cl)、 Michel Hatzigeorgiou (b)、Jan Kuijken (cello) の3名が参加、サウンド・デザインで Didier de Roos がクレジットされている。
 演奏者が少なく、全体的にシンセが多用されており、緊張感が少なくちょっとふやけた印象のアルバム。Denis は、Zero 解散後、Art Zoyd などと行動を共にしていたようで、その分、エレクトロニクスを取り入れるようになったか、それとも時代の趨勢か。久しぶりに聴き返して、また長く聴くことがないだろうと思った次第。

a0248963_19563484.jpg Les Eaux Troubles(荒れる波) 、1993年作。前作よりも若干ロック色が強くなった感じがする、冒頭の2曲がそんな印象を強くする。X Legged Sally のギタリスト Pierre Vervloesem が2曲参加しているが、冒頭の1曲が魅力的。全体的にいえば前作を踏襲するが、本作の方が多彩な試みがなされている。 Pierre Vervloesem の参加やマリンバ、チューバやヴァイオリンなど、若干違った彩を添えている。
 全体の感じがばらばらで、作品全体が印象に残らない、キーボードの音だけが耳に残る。Univers Zero にあった暗さ、重さみたいなものが少なくなっている。

 今日は若干疲れた感じがするので、この程度で。読み返しても、何が言いたいのか判らぬ前触れに力の入らぬ CD 紹介といったところで・・・・まぁ、こうした日もある、と自己弁護してみたり。
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by ay0626 | 2013-03-03 19:49 | rock

短く軽く、時代が変わる? ステファン・ミクス (4)

 読書用に作った眼鏡の調子が悪く、今直し中。ということで、ブログを綴るにも一苦労、焦点が合わないのだから、老眼もやっかいなもの。

 先週もクラッシクのコンサート、いつも行く会場ではなく、ちょっと古めのところ。会場が違うだけで、あんなに音の聴こえ方が違うとは思わなかった、新しければ新しいほど音響は良くなるということか。演目は、ドヴォルザーク、知った『新世界より』交響曲はなく、前半は『謝肉祭』という9分足らずの曲とヴァイオリン協奏曲、後半が交響曲7番と言う取り合わせ、若干ヴァイオリン協奏曲は眠くなりましたね、スミマセン。職場の若い人たちと行ったのだが、ある人から衝撃の告白もあり大分盛り上がって、帰りの電車が11時過ぎ、風呂に入って、それでも珍しく寝つきは良かったのだが、翌日の会議に眠気を催した、それでも寝ずに役目は果たしました、ハイ。

 ちょっと前になってしまうのだが、成りすましメール犯が逮捕された。写真を送付したところ、警察が威信を掛けて調べ捲くり、丸でオタクとしかいいようのない風貌のお兄さんを捕まえた訳。その後の報道や逮捕されたお兄さんの弁護士の話など見ると、自白に拘る旧態依然のやり方がまだ続けられているような気がして仕方がない。捕まえて吐かせてしまえばこっちのもの、それが誤認逮捕を2人も生み出した。この逮捕されたお兄さんが本当に犯人ではないとすれば、またまた警察の大失態ということに。しかし、お兄さんも取調べを録画しなければ応答しない、とはよくいった、その通りで間違って逮捕されて喋らされた2人も同意見だろう、国家権力を嵩に着るものは山ほどいる。自分は警察を信頼しないと言うつもりはない、多くの捜査官は真面目に職務を全うしていると思っている、しかし、自白とそれに頼る裁判所の凭れ合いは許されるものではないだろう。きちんと録画し、正々堂々法廷で争ってもらいたいものだ。

 久しぶりに Stephan Micus 。この何年間は2年に1作ずつ作品を発表していたので、昨年も出るのだろうと思っていたら出ない。期待を裏切られましたね、といって、彼の作品出たらそればかり何回も聴くというわけではないのだが。

a0248963_18463112.jpg To the Evening Child 、1992年。前作の Darkness and Light が3楽章の大作だったのに比べ、本作以降比較的短い曲を多く並べるという作風に変わってくる、本作は7章で構成されている。そして、本作の中心となるのがスティール・ドラム、言わずと知れたカリブ海の民族楽器、アフリカから連れてこられた人々は太鼓を叩くことも禁じられ、しょうがなしにドラム缶を加工し、音程の出る楽器を作り出したという訳。本来は華やかな音を出す楽器なのだが、ここでは大人しめに使われる、内省的なイメージを生み出す。そして、ヴォーカルが多用されているのも特徴の一つ。
 その他の楽器はお馴染みの、印度の擦弦楽器ディルルーバ、インドネシアの管楽器スリン、ドイツの管楽器コルトホルト、中東の管楽器ネイなど。最後の楽章は For Yuko 、ジャケット裏に Micus が赤ん坊を持ち上げている写真があるが、多分この子が Yuko なのだろう、奥さんが日本人で Nobuko だから。
 Micus の作品としては、突出してはいないが、比較的聴き易いものの一つ。

a0248963_18464244.jpg Athos 、1994年。ギリシャのアトス山への3日間の旅を音楽(8楽章)で表したもの。アトス山はギリシャ正教の聖地で、大幅な自治権が認められているとか、そして女人禁制で女性は入ることが出来ないらしい。良くあることだが、これは差別ではないのか、伝統だと許されるのか、どうでもいいが、ダブル・スタンダードだけはやめてもらいたいものだ。修道士のメンタリティなど理解できないし、理解しようとも思わないが。
 このアルバムで初登場はサタール、ウイグル族(トルコ系、中国に新疆ウイグル自治区があって独立運動で揉めているのは有名)の擦弦楽器で、1本の金属弦と10本の共鳴弦から成り立つ、1楽章と8楽章でメインを張る。また、2楽章、4楽章、6楽章は合唱だけの曲だが、グルジアン・ヴォイスのように東欧正教系神秘主義的な香りが(若干エコーの掛け方がフェイク感を添えているが)する、まあ、題名から見てもそれを狙ったものであるのも確か。尺八(3楽章)やネイ(7楽章)のソロ、スリン+植木鉢(4楽章)など、東欧神秘主義とは懸け離れた感があるが、全体のなかでは違和感はない。
 纏まりのよさで、90年代では比較的評価の高い作品。

a0248963_18465435.jpg The Garden of Mirrors 、1997年。前作とは打って変わってアフリカ的な印象の強い作品(9楽章)。アフリカのハープが取り入れられ、とはいっても西洋ハープとは異なり、ベース的な役割を果たす、ボロンバットとシンディングがこれ(特にシンディングはピッチカート、アルコとも演奏され、コントラバスといわれたらそうかとも思える)。合唱曲も1楽章、3楽章、8楽章で披露されるが、前作とは全く異なる、Micus の作曲家として雰囲気を作る巧みさが判る。
 多重録音も行き着くところまで言った感じで、合唱は20回も重ねているし、4楽章の Flowers in Chaos など、スリンのソロのように始まるが、最後の部分は22回も多重録音され、題名どおり『混沌』状態が現出する。6楽章の Gate of Fire などもオーケストラ(はちょっと大袈裟だが)的な印象もある。
 茶色のジャケット(水の上に浮かべた船で魚(?)を採っている風景)も印象的な作品。

 もう3月、1年の6分の1は終了、生き急ぐつもりはないが、時間の経つのが加速度的に早くなっている。命短し、焦れよオッサン。
 
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by ay0626 | 2013-03-02 18:15 | new age