神なき国の宗教歌 デッド・キャン・ダンス
新聞などは、中立の立場みたいな顔をしながら、一方的に反原発の姿勢が一目瞭然だし、県庁や市役所に少人数で詰め掛ける「市民団体」があたかも全国民を代表しているような報道は、ちょっとどうかと思う。地球温暖化で何がいけないのか、宮沢賢治は、東北地方の冷害を見るに付け(そりゃ、娘がたくさん売られていくのを見れば誰もがそう思う)、CO2が増えて暖かくなれば、と思ったと言う。原発事故の後、とんとCO2の話が聞こえなくなったのはどういうことか、原発が再稼動できなければ、火力発電で賄うしかないし(水力は短時間では出来ないし、こちらのほうが環境に与える影響は大きいと思う、また太陽光や地熱などは、これからの話だ)、火力は化石燃料を燃やして電力を得るものだから、必然的にCO2の発生は増える。「市民団体」の環境保護を錦の御旗にしている(多分少数の)御仁たちは、そこら辺のところ、如何お考えか。
電気が使えなくなって、不便となるのは御免蒙りたいし、電力会社は地域独占なのだから、要求に対する供給責任は絶対的な使命と思う。何処の世界に自分とこの商品(電力)を買う量を減らしてくれ、なんていう会社があるか、電力会社も考えるべきだ。
CO2も放射能も所詮、神話。信じようと信じまいと、それは個人の自由であるが、信じる信じないというのは宗教と同じ、いくら議論をしたところで一致点など見出せる訳もない。アメリカは、スリーマイル事故の後、近々新たな原発を造るという、そして京都議定書にはサインしなかった、あっぱれなプラグマティズムと言うべきか。
ということで、Dead Can Dance 。この人たち、オーストラリア人。高々1770年から240年くらいの歴史しか持っていない、流刑民・最下層民の流れ行く先の土地。そして現地住民アボリジニを殺戮し、タスマニアの原住民は絶滅してしまった次第。イギリス人は収奪には慣れていて、見事なものだが、原住民を人間と考えなかった。日本人は、まだ植民地人を人と考えたのだろう、日本人的な名前を強制し、非難を浴びた。植民地人を人間と考えなかったことで文化まで干渉しなかった(文化などとは認めていなかったのだろう、それゆえ無視した)イギリス人と相手が人間であると考え、自分たちに同化させようとして文化まで一部破壊した日本人とどちらがまともであったか。
そのオーストラリアに宗教的に見える音楽を作り出したのが Dead Can Dance 。もっとも宗教的・中世的になっていったのは、イギリスに渡ってから。ヨーロッパの毒は、超甘露だった、ということか。
1st は、Dead Can Dance (s/t)、1984年リリース。まだこのアルバムでは5人組であり、ドラムもギターも入っているちょっとおかしなロックという感じ。ハンマード・ダルシマーの音がフューチャーされておりこれが特徴となっている。同じ4AD 仲間の Cocteau Twins の1st Garland 的な位置づけか、これを聴けばやはり Goth 、Etereal の始祖ということが判る。Lisa Gerrard の声は、Elizabeth Fraser によく似ているし(Elizabeth の声のほうが子供っぽいか。特にこのアルバムではヒステリックなところも)、両者とも何を歌っているのか判らないところも(Lisa は完璧異言、Elizabeth は発音がおかしいだけ、との違いはあるが)共通点。もう一方の Brendan Perry は、落ち着いたクリアな感じのヴォーカルで、Lisa との対比が面白い。この路線で走ったら・・・一部には受けたかもしれない。しかし、あのフェイク宗教音楽が受けたのだから、どこでどう受けるのかは神のみぞ知るということか(それで思い出した、山本弘のSF「神は沈黙せず」、変な曲が受ける理由が「神」との関係で書かれていたな)。
このCDには、EP でリリースされた Garden of the Arcane Delights も収録されている。基本的に1st と同じ路線だが、Lisa のヴォーカルの尖ったところがなくなり、多少丸くなったか。
2nd Spleen and Ideal 、1985年。 最初の2曲に後期の萌芽が見えている。このアルバムから、Lisa と Brendan の2人組になった。
最初の曲は、大袈裟なティンパニの音から始まり、弦を全面にドラムを排除した作り。2曲目はトロンボーンを交えた、これも大袈裟な曲。フェイク宗教音楽の始まりといったところか、ドラムの有無が、ロック的か否かを分けるところ。
他は、リズム・マシーンを使っているのか、嫌にのっぺりしたドラムが入ったロック。悪くはないが、アルバムを続けて聴くと如何にも過渡期の作品といった感じ。
3rd Within the Realm of a Dying Sun 、1987年。題名がいい、「暮れゆく太陽の王国で」。かなりロック色が薄くなって、フェイク宗教音楽色が強まっている。特にドラムが殆ど使われなくなり、生音だかサンプリングだか判らないような、変に綺麗な音色で音楽が構成されている。それゆえ、何か座りの悪い、偽物っぽい(何度もフェイク宗教音楽と書いているのに!また繰り返してしまった)印象は拭えず、嫌いというわけではないのだが、何とも書くのに困る音の群れ。
4th The Serpent's Egg 、1988年。フェイク宗教音楽の完成とフェイク・ワールド・ミュージックの見え隠れ。
最初の The Host of Seraphim 、には失笑。どうしてここまで大袈裟に作れるのか、朗々と歌い上げる Lisa は、いくら偽物の宗教者とはいえ、ここまでやれば神々しさも出てこようというもの。題名を見て、天使がやっているホスト・クラブを想像してしまい、これでも笑った(ちなみに Host とは「大群」とか「軍の隊列」とかいう意味)。この曲が、このアルバムを象徴しているのか、他の評論を見てみると、このアルバムと前3作とは全く違うというようなことがよく書いてあるが、前の Within the Realm of a Dying Sun の延長上にある感じがしてならない。
後半になると、特に Brendan の曲に顕著だが、民族系のパーカッションを取り入れ、これも偽物のワールド・ミュージックを意図したような印象。後期の Into the Labyrinth や Spiritchaser に繋がる要素はこのアルバムから始まっている。
と何か悪口ばかりになってしまった感がなきにしもあらずだが、やはりそう好きな音楽ではないことは確か。同じ系統でいっても、Black Tape for a Blue Girl などは、好きと言えるのだが。たまにはターンテーブルに乗せてもいいかな、くらい。もう1回はこのバンド(?)のこと、書きます。ファンの方々、申し訳ありません。